7月に音楽で参加した語りの会の打ち上げを新橋の富山料理のお店で。 いつもはわりと聞き役になる事が多いのですが、何だか話しがはずんで学生 時代の話しやらいろんな事を話している私。 どうしてかと思ったら、皆さんラジオパーソナリティ、司会者、テレビナレーションのバリバリのプロだからでした。笑 そして皆さんやはり話しが上手く、こういう方々は固有名詞を正確におぼえていて、富山料理店で次々に出てくる魚に、この前仕事でさかなクンと一緒だったからいろいろ教えてもらったの。 と魚クイズを出してくれました。 ふと、明日のラジオ出演のいい練習になったかも? と思うも、お酒飲んでないからやっぱり違うと思い直す。笑 語りのプロの人と話するのってなんだか心地いいです。 流石だなーと思います。 やっぱり話に聞き入ってしまうし、話を聞き入ってくださる。 音楽のセッションと同じですね。 技術があるからテンポやノリが生まれて、心があるから心地よい。 この公演の時の舞台監督さんが、日本伝統芸能の理事の方で、やはり6月にご一緒させていただいた八王子の車人形さんをよくご存知で、彼も理事だけどね、忙しくて顔出さないなー笑。 彼は珍しいよ。普通ああして何代目かであれ程偉くなるとね威張っていて、仕事も選ぶんだけど古柳さんは本当にすごいね。 と絶賛でした。 私もそう思います。稽古場にはじめて顔を出した時にきちんとしなきゃと思っていたのが、 ごめんねー!ずいぶん早かったね〜今お茶いれるからねー! くつろいでてー! から始まって沢山面白い話がテンポよく出てくる。 語りの会の今後の話になり、いろんな楽器の話になるうちに津軽三味線の高橋竹山さんの話に。 皆さん仕事でご一緒していて、あの人はすごいよね。やっぱり。とうなづきあう。 私も高校時代に山形で高橋竹山の公演を聞いていてすごく感動した。 その時の公演で音響をしていた渡辺さんが、実はこの語りの会のお仕事に繋げて下さったのでした。 そして不思議なのは、宮崎県の綾町での工芸祭りで演奏した時にラジオ出演をした時のパーソナリティの方が、東京で語りの会をしているんだかど、いつか機会があれば出演してくれますか? という出会いが先にあったのでした。 それにしても、のどくろ という魚。塩焼きでいただきましたが、喉が黒いからだそうです。 こんなに旨いとは!
昨日夜は、渋谷の教室終わりにライブハウスを下見に。
ホールや公民館には慣れていても、ライブハウスのことを全く知らない。
先月若い人たちの渋谷のライブハウスのイベントに初めて参加させてもらって、はじめて理解した言葉もいろいろ。
たいばん
わんまん
いんすと
なんとなく勝手に想像していた意味と全然違っていて自分で笑えました。
いや、周りで使われていた言葉を普通に知ってるように聞き流していたけど、こういう意味だよね?と聞かなくて本当に良かった!
何を誤解してたか恥ずかしくてここでも言えません。 なんで数字とアルファベットが絡むとこんなに耳に蓋になるんでしょう?近い距離でお客さんが立ってるのがまたびっくり。
そういうシーンは確かに画面では見たことあるけれど、自分が舞台にいてそこから見たことなかったので、自分が座って弾いてるのに真剣に立って聞いてもらっているのが変な感じでした。お客様もきっと他の出演者と違うノリなので、もしかしたら真剣というよりポカーンだったのかも!
今日みた所は渋谷でも落ち着いた雰囲気のやりやすそうなライブハウスでした。 今年冬あたりにと思っています。
家に帰り着く頃
道をネコが超小走りに走り抜けていきました。
何かに似ている・・
ゴキブリが素早く走るとき、もし横から見れるチャンスがあると、足がものすごく細かく素早く動いていますが、猫の小走りに近いものがある。
ネコももっと早く走る時は前足が揃っていて、馬がぱっかぱっか走るあの走り方になる。
四つ足の動物は共通なのかな。
800キロの馬旅をモンゴルでした時に、牧民さんから教わったのは
小走りに走らせると、長い時間馬は走れるし乗ってる方もバランスさえとれば内蔵がブレない⁈
でもこの走りを馬にキープさせるのと、こちらの負担にならないようにバランスとるのは慣れるまで難しかった。
確かにこれだと長距離を安定して行けます。
馬がぱっかぱっかする時、メリーゴーランドのような乗り心地ですが内蔵がブレすぎるのとお尻を打つのであまり心地よく無いです。
その時は立って乗るのが楽。
これよりすごく馬のスピードが速くなって、それこそ一番速くなった時、なぜか馬の上下振動がなくなったかのようで時が止まってしまったような感覚になります。
その時は自分が馬になったような風になったような不思議な感覚。
猫の小走りとゴキブリの小走りが似ているという事はあまり賛同を得そうにありませんが、似てます。
馬の話しをしてしまうとあーやっぱり馬に乗りたいスイッチが入ってしまう。困。
インドに行く想像をしてみた。
曼陀羅。
そんなイメージ。
海の先端の方にある神社へ行った時、お参りした後で小山に登った。 神社の境内は深い緑と大きな苔むした岩があり、とても清々しい所だった。
でも裏の小山に登る時は藪とぬかるみと蚊で、登るのを一瞬ためらったが、きっとこの上からは海が見えるに違いないと思って、またあんなに境内は清々しいのに、すぐ近くの裏山がこんなに違うのも珍しいなと思いつつ。
すぐに上に着いて、海が見えた。 そこは気持ちいい風が吹いていて来てよかったと思った。
でもすぐ下のざわざわする藪とぬかるみが同時にあるのが不思議だった。 なぜか曼陀羅みたい。と思った。
今自分が、感じているものが全てではなく、そこには同時に感じていないあらゆるものがあるのかな。
いいものと思っていることが悪いものとたいして変わらなかったり、こうすべきと思っていることが、自分の頭の中の世界だけで、他のあらゆるものからしてみたら、どうでもいい事だったり、どこでどんな風にしていても曼陀羅の世界からは自分は消えてなくならない。その中の何処かに絶対にいる。
生きていても死んでいても、幸せでも不幸でも、何らかの形で存在しつづけていることが曼陀羅。
今はそういうイメージだけど、それさえ断片でしかない。
高尚なものも低俗なものも変わりなく受け入れる何か。
それをいっしょくたに捉えた瞬間。
だから
芸術といわれる創作や表現は、
覗いてみる場所がどこであろうと、どんなアプローチであろうと、正解なんかない。 高尚も低俗もない。
インドに行ったらカレー食べよう。 (っていうかカレーしかないのか。
っていうか行く予定ないし。笑)
エジプト展へ
エジプトの青はきれいだ。
細かい細工とあの絵柄。
好きだな。
アーモンドの形の目も。 青と金色は合うなー。
とか断片的な感想の他に、
日本のみなさんは、とても勉強好きだとつくづく思いました。
こういう所に来る人だからなのでしょうか?
ちゃんと並んで前の人に続いてゆっくりとまず解説を丁寧に読み 、展示物を眺めて感心してつぎへ進む。
私はどうしても勝手な自分のテンポでいい加減にまわる。
パッとみて興味を惹かれた所に張り付いて離れない。遠くからや、人の肩越しに
見たり見なかったりである。そういう自分勝手な見方をしている人はとりあえずいなかった。
あるお部屋で係りの女性が 「この部屋は順路ございませんので 見まわして どうぞご自由にご覧になってください。」
と言っていたけど、部屋にいた皆さんは、もうしっかり順番にそって部屋をぐるっと 囲む形になってたから 崩せないんだろうし
、一つも見逃さずに見たいし、全部丁寧に見たい。 だから私はムリだけど(笑) 皆さんはとても勉強好きだと思うのです。
それで思い出したのが子供の頃
、母が動物園に連れて行っても、入り口にいる白熊の前から離れないので、数時間そこに居続けて他は見ずに帰る。 そんなだったようです。
思うにこれは 母のせいではないだろうか? 子供はそんなもんだろう。 普通はもう行くよ。 他にもいろいろあるよ。
と順番に、まんべんなく連れてくから、ちゃんと見て回れる人は きっとそう育てられたに違いない。
よく母は、買い物したい時に私を一人で水族館に数時間置いて買い物していました。 私は・・ あんまり覚えてないかな・・
そんな母は、おじいちゃんに連れられモナリザもツタンカーメンもパンダも 数時間並んで一瞬しか見れない経験をしています。 パンダは
お尻しか見えなかったと・・・笑