2017
満員電車みたい。
そのくらいぎゅーぎゅー。
想像より小さなところに沢山人が入ったライブを聴きに行った時のこと。
満員電車とか満員のエレベーターとか閉所で人が沢山いるのがとても苦手なんだけど、音楽がはじまったら気にならなくなった。
ブラジル音楽ショーロ。
たまたま日本にきて、もう今日しか聴くチャンスないらしいというので、集まった人達。
とっても自然な感じにはじまって、曲数が重なるうちにどんどんのってくる感じがまた自然で、いつのまにか奏でる独特なリズムにひきよせられる。
あの柔軟で自由で自然で遊びがあるのはブレない身体性と気持ちがあるなだろうなと思った。
馬のことに例えると(え?なんで?馬好きだから。)
馬を知らない時、私はモンゴルの草原でいきなりのったので、とくに教えてくれる人もなく、頭にあるイメージで、そういえば背すじピンとして、リズムに合わせて腰をあげたりさげたりしてたなー。とそんなものをやってみたけれど、
牧民さんは全然そんな乗り方してなくて、みてると、馬の自由な動きに吸いついてるみたいだった。
正確なリズムを刻んでリズム通りにと思ってると、追うのが一生懸命になってしまう。
どうしたら牧民さんみたくのれるんだろう。
あれこれやってみたり、乗れるようになってきて分かったのは、馬の背中で馬と一つになってしまうことだ。
それには腰が据わった状態で、体はぐにゃぐにゃにしておくと、馬の動きに柔らかく合わせながら、リズムはずれずに、ぴったりしておけるから、体が多少おいてかれても、腰は合ってるので落ちない。
音楽も似たような感覚がある。
腰が据わっていれば、どんなに元になるリズムから行ったり来たりしても、一貫したものは確かにあって、行きつ戻りつの遊びを体感しながら、安心感という心地よさがある。
すっごく気持ちいい!
ってなるときは馬も音楽もこんな風にリズムは一貫してなくても芯が一貫していて振れ幅は自由でわざとずらすにしても、ぴったり合わせるにしてもウマく行く時だ。
先に馬にのれるようになったから、なんかそれは良かった気がする。
モンゴルの先生が馬に上手に乗れるようにならないと馬頭琴は上手に弾けるようにならない。といったのは、こんなこともあるのかな。
競馬は競り合うから、こちらが前にでたり、向こうが前にでたり、、行きつ戻りつ競り合いながら、ときにはピッタリと真横に並んでいつまでも同じ動きで並走する時もある。
あの面白さってあるなー。
あくまでも見る競馬でなくて、自分が乗る競馬なんですけどね。
モンゴルの人たちと競争したあの面白さはやっぱり馬のリズムの音楽をひく時に蘇る。
本当に乗らなくても、この文章から少しは伝わるように、想像力があればそれでいいのだと思う。
あ、また馬に乗りたくなってしまった。
一月は新しいCD製作です。
とても素敵な環境で撮れることになったのでとても楽しみ。
新しいメンバーも2人入ります。
写真は馬旅800キロの時の頼もしい相方ヘイダーシ。
2017
幕間
次のストーリー展開は全く違う物語のはじまりだ。
一つの話が終わりを告げる。
当たり前だけど、終わらないと次の物語ははじまりようがないのだ。
今の安心感を手放さないで次の冒険はできない。
違うやりかたを試すチャンスだ。
今年の正月はちょっと面白い。
女友達と二人で過ごした。
年は一回り弱違うのに、お互い共通点が多くて話が弾む。
彼女はゲームのキャラクターデザインを3Dで制作したりする、私には分からない世界だけど、フリーで創作活動している点で、いろいろ話が共通する。
私は彼女の描く世界が好きだし、彼女は私の音楽が好きだ。
そんな関係もありがたいなと思う。
仕事で絡むこともある。
彼女の実家が岡山で、私の父が岡山にいたりして、岡山で会うこともある。
考えたら不思議。
彼女の画家であるお母さんにたまたま岡山のカフェで話しかけたのがきっかけなのだ。
東京ではじめて彼女と会った時、あろうことか二人して同じイタリアのユニコーンの手帳を持っていた。
出会いって不思議。
今年は一体誰と出会い、どんな物語がうまれるのかな。
今からもう次の一年を振り返るのが楽しみだ。
楽しみと思えるこの今が幸せだ。
楽しいことばかりではないだろう。
もちろんそれが人生だから。
それでもそこから何を学んで何を生かすかそれがチャレンジだと思えばそれもまた楽しみの一つだ。
まだ見ない道をまだ見ない景色をワクワクしながら進んでいこう。
幕が開けるのを怖いと思うのか、楽しみと思うのか。