2017
肉体というのはやっぱり何かを語ってるんだろうな。
土曜日の朝に父に会い、その約36時間後に父は亡くなったわけです。
日曜日は穏やかであったらしくその夜中に逝ったのですが、土曜日は心臓が苦しかったらしく、それでも語りかけたりすると話に気をとられるし、さすると気持ちよくなるようで落ちついたりしたので、
なんというか、見ていて、長く使い続けた心臓、肉体がもう止まろうとしているのだと感じました。
ブログを読んで、父の死を知り、皆さん私を心配してくださるのですが、とても元気です。
私の年齢だとまだ父を亡くすのが早い方になるのだと思うのですが、
なんせ父は97歳でした。
そう言うと皆さんびっくりされるのでわざわざは言わなかったのですが。
そして元気で頭もしっかりして、新幹線にのって一人で仕事にも行くのが3年くらい前までありましたけれど、この3年くらいは、入退院を繰り返し、弟なんかは、弔辞をもうその都度何度も考えてるからね。と笑って話していました。
私なんかももう最後かもしれないと何度も思いつつお見舞いして、岡山と千葉というようにとても離れていたので、仕事で行く時にしかほとんど寄れなかったのですが、有難いことに、ここ最近何度も足を運ぶことができました。
それでも会うたびごとに明らかに死に近づいていくのがわかり、最後は今目の前で息を引き取るかもしれないと本当に思いました。
なので、満月の晩の金曜日に、父の好きな言葉でもあった、龍は嵐を呼んで天に昇るという言葉をとって作った曲を弾いた時には、これで逝っても驚かない。むしろ手助けができそうだと本気で思っていました。
次の日の土曜日の朝に、苦しい。どこにも行かないで。
ここにいて。
ここにいるよと言うと安心して少し落ち着く。
終わろうとしている肉体というのを見ている感じでした。
猫に例えると父に、猫と比べるなんて!と言われそうですが。笑
以前拾った野良猫が、まだ小さく、もう今日が峠だとやはり思い、それでもどうしても出かけなければならず、小さな箱にタオルに包んで寝かせ、泣く泣くでかけて、帰ると虫の息。
ああ、待たせてしまったのだなと思い、もう大丈夫だよ。逝っていいよ。と抱っこしてさすると、大きく息をしてそのまま。
死ぬっていうことが、切なく悲しいと同時に、なんだか尊いような不思議な気持ちがしました。
ひと月前にあった時には、こちらの世界とあちらの世界を行ったり来たりしているってこういう感じなんだと、そばにいて、また父の話すことを聴いてそう思いました。
それでも、案外すっと逝くのは難しいものなんだと、最後にあった時は思いました。
本当に最後の瞬間は眠るようにすっと逝ったという話をきくと、ああ良かったと思うと同時に、
一体それがどんな感じのことなのか、父が書いたらどんな風に書くんだろうと思ったりします。
きっと父は、笑っておまえ、自分で経験するまで待ちなさいよ。と言いそうです。
その通りなんですけれど。
そうしてみると、自分で死ぬ、自殺ということは、いかに危険なことなのかと思うのです。
まだ肉体は終わりに向かっていない。
肉体が元気でも死んでしまう不慮の事故というのはあります。
それでも魂がきっとその準備をしていたと私は思ったりします。
まあその辺は正直わかりませんが、
でも、肉体も魂もそのつもりがなく、準備もしていないままで、自分で死んでしまうというのは、本当に迷子になってしまうと思うのです。
それは苦しくて苦しくて死んで楽になろうとしたのに、死んで本当にもっとどうしようもできない迷路にはまってしまう事だと思うのです。
生きていれば、時間が流れます。
時間が流れれば状況は必ずかわります。
自分で状況を変える力が出なければ、なるべく低くなって、少しのエネルギーでやり過ごすことはできるかもしれない。
だからどんな事があっても生きている方がいい。
つい先日、赤ちゃんに会いました。
前に馬頭琴の生徒さんだった方が出産したので会いに行きました。
久しぶりに抱っこしたり触れたりする赤ちゃん。
そばにいると、不思議でした。
亡くなる前の父を思い出しました。
父は終えようとする肉体というものがどんな存在かというのを見せてくれましたが、赤ちゃんは本当に死とは無縁な存在でしたから。
父の瞳が赤ちゃんと本当によく似ているのも驚きでした。
頭をなでると、お母さんに撫でられてるみたいだなー。気持ちがいいと喜んでいました。
撫でていると、本当にお疲れ様。という気持ちになりました。
赤ちゃんの頭をなでました。
言葉にならないですね。
もちろんお疲れ様なんて気持ちはわきませんし、
なんていうか、これから何十年もこの身体と生きていく新しい強さ。
さて自分の身体を顧みると、なんかかまってあげてなくてかわいそうと思いました。笑
タイミング合い、友人のアロママッサージを立て続けに受けることができて、触ってもらうことで疲れていたんだなーと分かります。
友人はすっかり人の身体を触って、その人の身体の声を聞くことができるみたいです。
父を目標にするならば、先はまだまだ長いぞ。
焦らず、生き急がず、落ち着こう。
と思うのでした。。
そういえば昨日の晩は東京音大の馬頭琴講座でした。
初級クラスの方が帰り、中級クラスの方とじっくりと昨日は開放弦で二本の弦を弾くということをひたすらしました。
リラックスした状態でなければ本当に楽器は一番鳴ってきません。
そしてその状態だと倍音が豊かに響いて気持ちがよく、いつまでも弾いていると、違う世界に行きそうです。笑
2017
プライベート草原
去年遠野の人に荒川高原牧場を勧められて、行った時に、山の上の高原でのんびり自由にしているお馬さんを眺めて近寄ってきたお馬さんをナデナデして、楽しんだ以外に、もう一つ素敵ポイントがあった。
もっと上に何があるんだろうって車を走らせて、結果は、通行止め。
でも早池峰山の方へとあったので、その時からとっても気になっているお山。
戻り途中、道の脇の林に狭い入り口があった。
通り過ぎてしまうような、植え込みが少し開いてるような。
急に入りたくなって、思いっきり木の根っこに車の車体の下をがーーーん!!とぶつけながら入ると、なんじゃここは!!
という素晴らしい空間。
とっても優しくて大きな木が待ってたよって言ってくれているみたいに両手を広げていた。
目の前にはこの山の斜面と草原とその向こうには早池峰山。
ピアノの竹井さんとドラムの前田さんとキャーキャーいいながら、(言ってはいない)あの木の下にもぐりこんだり、楽器出して弾いたり、向こうの木に抱きついて歌ったり、なんかおかしな人達ごっこをした。
そんなテンションになってしまうようなところだった。
また絶対くるよ!って思って後にしたのだった。
だから舞踏家の太田さんが、自然の中でコラボレーションしたいと言った時に、すぐここを思い浮かべた。
お馬さんにも会いたかったけど、このプライベート草原が見つかるかドキドキだった。
なんと大きな優しい木の下には先客の軽自動車が一台停まっている。
でも見渡しても誰もおらず。。
向こうの木にも挨拶して、楽器をおろしたりしていると、太田さんはすでに早池峰山の方向に向かって踊り出していた。
早池峰山がステージのバックだとすると、私はここで、前田さんはお向かいに。
ここに吹く風をまず感じなから。
荒川高原牧場・舞踏コラボレーションその一
少し遊んでみる。そういえば、
前田さんと即興するのもはじめてでした。笑
荒川高原牧場・舞踏とのコラボレーションその二
最後はオリジナル曲の最後の鷹で締める。いつも吹く小さな呼子がみつからず、インディアンフルートの小さいのを、吹いてみてからの〜〜
荒川高原牧場・舞踏とのコラボレーションその三
この動画、陶芸家の西美紀さんが撮ってくれました。音聞かなくてもなんか音がするようなそんな動画です。
ぜひ三つとも見てみてください。
このシチュエーション。
ないよね。
素敵すぎるなー。
この旅が、旅の途中でも終わってからも、夢だったんじゃないかとみんなで何度も思うのは、ここのせいもあるなぁ。
終わった後に、先客の車から地元の年配のご夫婦がおりてきて、いやーいいもの見させてもらった!
お話聞くと、年に2回ほど、この木の下にお昼寝しにくるんだそうだ。
その前にお気に入りのお饅頭買ったからと、大きな出来立てホカホカのクルミののったお饅頭を私たちそれぞれにくれました。
なんかご褒美みたい。
去年の荒川高原牧場の写真。
そよそよそよそよ
風
きっといつも話しかけてる
いつもそばにいる
遊ぼうっていってる
背中を押してくれてる
流してくれる
逆らわずに委ねたら飛べる
風
つづく
2017
忘れてもいい事をどんどん忘れるようになっているこの頃です。
仕事関係は忘れない。
好きなことも。
その他が不思議なくらい抜け落ちてしまう。
大丈夫かいなこれ。
旅に出ると殊更に風とか光とかそんなものが特別なものに感じられる。
その瞬間、ここへ来た意味が分かるような気がする。
大雑把O型チームだね。
と自分達で言ってみた三人での岩手遠野への旅。
毎度お世話になっているドラムの前田さんと、知り合って間もない、というか一瞬お茶した事があるくらいの陶芸家の西美紀さん。
最初の頃はお互いO型だしね。みたいなノリだったのが、最後の方になって、2人から美炎さんの大雑把はちょっとドキドキする。自分もここまでじゃない。
みたいに言われて、え??なにが?どこが?と一人首をひねる。
先日亡くなった父が良く言っていたのが、時間が勿体無いから、テレビも見ないし、無駄なことはしない。
やはり亡くなったガラス絵作家の児玉房子さん、去年遠野でお会いした時に、もうね、好きなことしかやらないの。やりたい事だけやるの。
人生のテーマが決まっている人は、そのことに集中する。
花巻に移住したばかりの舞踏家の大田直史さんの家に泊めていただいた。
隣の家のおばあちゃん付き物件。
台所の隣に外から直接入れる小さな土間がある。
そこだけ時代が違う。
土間のむしろがおばあちゃんの作業場。
朝やってきて、豆を剥いたり、針仕事をしたりするんだそうで、太田さんの奥さんはいろんな事を教えてもらったり、一緒に作業したりするんだそうだ。
素敵な物件。
お隣のお漬物などもいろいろ頂きました。
太田さんとは今回の旅の三人とも会った事がなく、それなのに泊めていただいたという。。
太田さんと待ち合わせたのは遠野にあるガラス絵作家の児玉房子さんの美術館。
四月に電話で、児玉さんに、6月遠野にいくから、新しいCDに児玉さんの作品の銀河鉄道の夜の絵から作った銀河夜行の曲を入れたので持っていきます。
と話すと、あら、今ね美術館の作品を総入れ替えしてるのよ。
あの絵はじゃあ残しておくわね!同じ位置に。
そしたら、ミニコンサートしましょうね。ここで。
はーい。
というやり取り。
5月の兵庫でのツアー中に亡くなった知らせが届き、6月行ったら庭でこっそり歌おうと思っていた。
銀河鉄道の夜の絵が、一昨年訪ねた時のままに飾ってあった。
やっぱりなぜか涙が出てしまう。
こっそりガラス絵の前で心の中で歌った。
この歌を歌うと、児玉さんと父を思い出してしまい、歌えない。
ゆっくりと見て回った後で、ちょっとだけでも、弾いたらどうかと皆が言う。
迷っていると、窓から明るい太陽が差してきて、なんとなく、そうしようかなと思う。
代わりに管理されている義理の兄弟の方に、そんな訳で、一曲弾いてもいいですか?
ときくと、いいですよ。
それで弾いた。
背中に太陽の光が当たって暖かかった。
去る時に、実は二階があって、今まで音出すのは全部二階でやってたんです。
ガラス絵の前でやったことはなくて、本人がやるの許可してなかったから。でも本人いないし、わかんなくて。
とちょっと困ってらした。
あ、そうだったんですね!それはすみませんでした。と謝る。
知らずに音を出してしまったけれど、後味が悪くなかったのはきっと許してくれた気がしたからかな。
外に出るとすっかり晴れていた。
今日はスコールのような雨だったらしく、私たちが遠野へ来た頃はもう雨は上がり曇り気味だったけれど、
ちょうど夕刻前の金色の光でどこもかしこもキラキラしている。
美紀さん撮影
花巻を中心に企画していたのが、計画が流れたり、いろいろあったみたいで、気づいたら三陸ツアーになっていたという。
皮切りは田老の海の盆。
田老と聞いて、どきりとする。
全村が流されたところだ。
そもそも六月に遠野へ行くことを決めて、太田さんを紹介していただき、メールでやり取りするうちに、はじめは、来たついでに近所でコラボレーションしましょうという軽い感じが、
児玉さんのところでのライブがいつ終わるかわからないから、改めてにしませんか。というきっかけで、ではいつまた来れますか?と。
前田さんとスケジュールを合わせていたら、なんと8月のお盆しか日程が合わず、よりによって、お盆かーー。
ん?お盆といえば、盆踊り。といえば舞踏。
なんか意味がつながりそう。
元はと言えばこの六月の遠野行き、元々去年呼んでくれた馬と暮らす町遠野の方が、ゲストハウス完成したらまたコンサートしましょうと言っていたので、呼ばれたらまた行くと思っていた所に、美紀さんに行きましょう!と言われ、彼女はもう行くと決めているようだったので、どうしようかなどうしようかな。と内心迷っていた時期があるのだけれど、ある友人が、いきなり、遠野へ行く夢を見た!
と言うので、え?そうなの、それなら一緒に行くか。
と決めた今回の旅。
蓋をあけたら、その友人は行けなくなり、そしてまた8月に行くことになった。
しかもお盆に。
そして三陸の慰霊とも思える舞踏と音楽の舞台。
それでなくても私には今回の旅は児玉さんと父を想う旅だったので、死というものと、そして同時になぜか同じくらい生というものを意識するそんな流れが続いている。
今年にはいってから色が変わってしまった。
もしかしたら始まりは、広島のお寺だったかもしれない。
住職にあなたが演奏する場所の下には原爆で亡くなった沢山の人が埋まっているんです。
確かに今までも、演奏する場所が、ここは古い時代に戦場だったところだとか、そういう場所というのは多い。
この小さな島国、だいたいどこへ行ってもそんな歴史はある。
今生きているこの場所と、聞きに来てくれた人達と、確かにそこにはその場所の歴史という別の時空が同時に存在している。
音を出すとき、
確かめつつ、混ぜる、聞き耳をたてる。
続く
2017
父が逝った。
今月の11日、正確には12日の1時半。
3月。
広島での演奏の帰りに病院へ見舞う。
ちょうど食事時で、少し咳き込んだりしていてなかなか食べ進まず。
風邪引いてるの?と聞くと
「わざわざお見舞いに来たのに病気のフリでもしないと来た意味がないだろう。これでも気を使ってるんだよ。」
5月。
兵庫でのコンサートの帰りに寄る。
寝たきり。
にこにこしながら
「どこも苦しい所がないんだ。もうね、いつ逝ってもいいの。
俺は向こうへ行ってもやる事が沢山あるからね。そのまた次の世界でもやる事が終わらないんだ。俺には終わりがないんだ。
次また会いましょう。向こうでね。」
6月。
木曜日。病室で少し演奏する。
うっすらと涙ぐんでいる。
もう食べることをやめた。
瀬戸内の牛窓でのライブは金曜日。満月だった。
このまま逝っちゃうのではないかと、どの曲を弾いていても送り出すための曲に思えた。
ライブには特に父とゆかりのある人が集っていたこともある。
土曜日、このまま美星町でのコンサートに行く為に牛窓を出る予定だったけれど、次に岡山に来る用事がなかったので、おそらくこれが最後だろうと、もう一度寄る。
部屋に入ると父は目を見開いて空を見つめ、両手を顔のそばで空を掴むようにしていて、何か話している。
近寄ると、
「ああ、良かった。よく見えないし、息ができない。」
心配からのパニックになっている部分もあり、実際苦しそうでもあり、看護婦さんを呼ぶと、酸素量を計ってくれて、99パーセントあるから大丈夫ですよ。
と言われる。
ピアノの竹井さんが手をさすってくれて、ドラムの前田さんが両足をさすってくれて、私が頭と胸をさする。
どこにもいかないで。と手を握りしめてくる。
美炎子。何もしてあげられなくてごめんね。
と何度か言う。
苦しさを紛らわすために違う話題にふると、ちゃんとその話題に反応する。
とうとう行かなくてはいけない時間なので、お父さん。また来るからね。
また会おうね。
といいながら、もうそれが無い事だとどこかで分かっている。
京子さんに電話しておくからね、来てくれるから大丈夫だよ。
それが最後。
夕方来た京子さんにもずっとごめんなさいだったらしい。
日曜日。
穏やかでどこも苦しまず、看護婦さんみんなに、ひたすらありがとうと言っていたらしい。
そしてそのまま夜中1時半にお医者さん、看護婦さんに見守られて、眠るようにスーッと亡くなった。
京子さんは15分間に合わなかったそうだ。
弟の甲矢人はチェコにいた。
月曜日。
ちょうど甲矢人が帰ってくる日。
お通夜。
火曜日。
密葬。
父の願いは家族だけの、無宗教のもの。
私の新しいCD「銀河夜行」が人気の無い小さな会場に流れている。
牛窓の本当に家族のようなお付き合いをしてくれたご夫婦三組と他に2人くらいの方が来てくれた。
不思議な葬式だった。
父らしい。
無宗教だから、お経もなければ賛美歌もなく、家族だけの密葬なので、挨拶やそんなものもなく、どうしよう、場が持たないじゃない?何する?だれか歌えば?みたいになってるところに、私がその後仕事で使う事もあり、馬頭琴持って行ったので、馬頭琴を弾きながら見送る。
書いてきたことを読み返すと、父は、どう?タイミングばっちりでしょう。
これでも気を使ってるんだよ。
と言ってそう。
美星町でのコンサートでオリジナル曲「龍は嵐を呼んで天に昇る」を弾いた。
父が好きな言葉。
嵐をただ、待っているのではなく、自ら嵐を呼ぶ。
その状況がないからと嘆いて待っているのではなく、自ら主体性を持ち、切り開いていく。
父の書いた文章では
「古来龍は雲を呼び嵐を呼んで天に昇るといわれる。しかし龍は雲を待ち、嵐が起こるのを待って天に昇るのではない。龍は自ら雲を呼び、自ら嵐を呼んで天に昇るのである。」
最後を感謝で締めくくった父。
きっと向こうでゆっくりするのもつかの間、生き生きと何かはじめるに違いない。
私はこの週末岩手の遠野にいく。
父の生涯の研究の一つでもあった宮沢賢治の花巻にもすぐ近く。
もう一人逝った人がいる。
ガラス絵作家の児玉房子さん。
岩手の遠野に美術館があり、住んでいた。
彼女が描く宮沢賢治の絵。
銀河鉄道の夜の絵が特に好きで、遠野の美術館で見たとき、動けなくなって涙がとまらなかった。
「銀河夜行」という曲を作った。
来週の遠野で房子さんに聞いてもらう予定だった。
電話をすると、思ったより元気な声で、「待ってるからね。全部作品を入れ替えてるんだけど、あの絵だけはあそこに残しておくわね。」
それが最後。
5月、兵庫のコンサート、瀬戸内海が一望できる素敵なお庭でのコンサートで歌った。風が強かった。
なぜか房子さんのことを語っていた。
次の日のコンサートの前に知らせが届いた。昨日亡くなりました。
そのツアーの最終日、長野の友人の家に泊まった。
そこは奇しくも、房子さんととても親交のある方の家だった、美炎子さんと房子さんのコラボレーションの企画をしたかったけど、叶わなかったわ。
ちょうど房子さんのお葬式の日だった。
「銀河夜行」
児玉房子さんの銀河鉄道の夜の絵からのインスピレーションと、父の生涯の研究であった宮沢賢治の最後に取り組んでいた銀河鉄道の夜。
私には父は父でもあり、房子さんと同じように芸術というものに携わる、師でもあった2人。
おなじく宮沢賢治を捉えようとしていた。
私はこの週末遠野へいく。
遠野で二人を想う。
山の上の馬のいる牧場へ行こう。
いつか再会したときに、あれからねって素敵なお土産話しを沢山聴かせられるように生きていこう。
西郷竹彦
本名西郷隆俊
偲ぶ会は7月29日兵庫文芸研、神戸大会にて。