2016
昨日の宿題なんでその質問にちゃんと答えられなかったか。
ちょっと考えてみました。
要するにすごく気になってるのです。
私自身がね。
本当は、そうだよ。この話。本当だよ。
私は信じてる。
本当はそう言いたかったんです。
なんでかというと、
自分は物心ついた頃から馬が好きだった。
理由はわかりませんでした。
恋い焦がれるほどに大好きなんだけど、同時に胸が痛い。
だから幼い頃はこっそり、よく通るお稲荷さんにそっと手を合わせて、私に馬をください。とお祈りしていました。
スーホの白い馬を2年生の時に授業で習ったときは、悲しすぎて嫌いだった。
授業中、わからないように耳を塞いでた。
すこし大きくなっても、馬が好き!って人に言えないでいた。
それさえなぜだかわからなかったのだけど。
馬と共に生きる人達のいる、モンゴルにどうしても行ってみたかった。
馬頭琴に出会ったときに、馬が付いてたから、やりたいと思った。
馬頭琴奏者になってから、再びスーホの白い馬の物語と向き合わなければいけなくなった。
なんで私はこの話が苦手なのか。
そもそもなんで馬が好きなのか。
どうして胸が痛いのだろう。
そんな想いがつのったときに、ある夢を見ました。
その馬は真っ白でたてがみとシッポは真っ黒。
その馬と共に生きている私は大きくなって、少し馬が年老いたときに、何時ものように林の中を馬に乗って走っていた。
倒木があったので、馬に飛び越えさせようとした。
少し歳とった馬は倒木につまずいた。
私は馬の背からポーンと投げ飛ばされたけど、馬があらぬ方向に倒れて、私は馬の上に落ちたので、かすり傷一つつかなかった。
でも馬は足を折った。
それから3日間、私は馬が亡くなるまで、一緒にそこにいた。
目が覚めた時、私は泣いていました。
ああそうか。だから私は馬が大好きなのに、同時に心が痛かったんだ。
だから、白馬を失ったスーホの気持ちがわかりすぎて辛かったんだ。
と思いました。
夢でしたが、なんだか胸のつかえが取れたようで、どこかさっぱりしていました。
今まで自分にとって、節目だったり、仕事をいただけた時に、馬の存在を感じることがよくありました。
なぜだろうと不思議でしたが、
私はそのお馬さんが馬頭琴と出会わせてくれたんだろうと思いました。
居なくなってしまった存在が、音楽になって戻ってきたという、私には、その物語は同時に自分の物語でもあるのです。
だから私にとってスーホの白い馬のお話は本当です。
あの男の子の疑問、それはスーホの白い馬のお話を勉強して、馬頭琴を実際にまじかで見て、音を聞いて、モンゴルの人の馬との暮らしを聞いて、本当の話だと思った。
でもあの話が本当なら、馬頭琴は馬からできてるはずなのに、シッポしか使ってないなら、あの話は本当じゃないの?
そんな真剣な問いでした。
でも本当に聞きたかったのは、たぶんスーホと白馬は本当にいて、白馬の心が馬頭琴になり、馬頭琴を弾くスーホが白馬の心を歌う。
お互いを思いやる心が作った楽器かどうかということ。
それなら、本当にそうなんです。
少なくとも私はそう思っています。
スーホの白い馬
物語には背景があります。
その物語が生まれる必然性。
だから、この物語がうまれ、語り継がれているということは、生まれた背景と育んだ背景がある。
それだけで、物語は生きているといえるし、本当か嘘かではなく、ある。
というふうに捉えていいのだと思います。
でもね、やっぱりいろいろ話しするよりも、音楽で語りたい性分なんです。
質疑応答もとても楽しいけど、曲を弾いてる時に、身体全体で聞いてくれる子供達の前で演奏するのは楽しいのです。
それだけでいい気がします。
べつにこの夢の話こそ、本当かどうかはどうでもいいのです。
これが私が持っている物語です。
そしてその物語を持つ私が弾く馬頭琴なのです。
ただそれだけのことなのでした。