2016
送られてきた招待券。
高校生のときに、山奥の村がダム問題でゆれているのを取材して論文を書いたのが発端で、映画会社のシグロの監督が、やはりダム問題を取り上げた映画「あらかわ」の製作のこともあり、この村のダム問題のことと、その論文をなぜ書いたかを聞きにいらした。
ちょうど私はロバのピョンファーにのって村を散歩していた。
そこを車が一台通り過ぎた。
その車に監督がのっていた。
それがご縁で手紙のやり取りが少しあり、進路のことで少し助言をいただいたりした。
映画「あらかわ」はすばらしかった。
大人になり、その頃思いもしなかった馬頭琴奏者になり、思い出して監督に馬頭琴のCDを送った。
あの時進路のことで助言していただいた、美炎子さんは芸術関係がいいのではないか、ということが、現実になりました。
と報告したかった。
プロデューサーの佐々木さんからお手紙をいただき、監督が亡くなったと知った。
私の馬頭琴は監督には聞いてもらえなかった。
その後Facebookを通じて佐々木さんと少しやり取りのある中で、映画「だれかの木琴」の招待券を送ってくださった。
「あらかわ」はドキュメンタリー映画で、シグロはそういう作品を扱うのだと思っていたので、今回の映画は知り合いの監督さんの作品と思っていたら、製作プロダクションがシグロで、佐々木さんはその映画のプロダクション・マネージャーだとエンドロールで知った。
美容師に惹きつけられてストーカーまがいのことをする主婦の話。
主演は常盤貴子。
監督は東 陽一。
というのをチラシでみていて、実際そのようなストーリーなのだけれど、
なんというか、とつとつと語られる物語のような映像で、変にいやらしかったり、怖かったりはしないのだが、怖くないはずの場面で少しゾッとしてしまったり、なんというか、今時の映画が事件や展開の派手さで繰り広げられるのとは真逆な、日常の細々したことから自然に起こりうる、そう、どこにでも、ふと訪れるそのへんに幾らでもある物語。
最近のバッシングという傾向。
ネットがある前はマスコミの得意分野だったけど、一般の人が参加するようになった。
そして事件は尾ひれがつき、罪を犯した人へのバッシングは大きくなる。
この映画では冷静に人を見てる。
誰の心の中にもある白黒はっきりしないなにか。
私は善人か悪人か問われたら自分を悪人だと思う。
なぜか答えるのがむずかしいけど、善人でないのは確かだと思う。
そもそも善人悪人と分けるのは違うと思っている。
犯罪者というレッテルをはられたひとは自分と何が違うのか考える。
その線をどこで越えるのか。
誰しも子供の頃に自分の心のうちに、木琴があるのだろう。
奏でたい何か。
奏でている何か。
でも音にならなかったり、メロディーにならなかったり、うまくいかない。
それを抱えてまま生きてきて、ある時急に流れ出してしまうのだ。
自分の奏でたかったものを形にしてしまうのだ。
それはもう仕方ないのだ。
そうとしか思えない。
映画館の帰りに東京で見た丸い月はきれいだったけど、何となくよそよそしい感じだった。
家に戻って、田舎の家の庭で見上げた月は、いつも通りの、私だけに語りかけてくれる月だった。
みんな少しばかりくるってるのだ。
じゃないと人間じゃない。