2016
人が纏ってるものってある。
馬関係のことをしている方が生徒さんにいて、その日はなんとなく頭の中がぐるぐるしていたのだけれど、
いつもレッスンの終わりまでは我慢するんです。馬のこと聞くの。笑
おわったら、今日はどんなですか?って聞いちゃう。
そもそも、この人はさっきまで馬とともにいたのか。
っていうだけで、なんてすごいんだろう。
とおもう。
で、子馬が、っていう話を少し聞いただけで、頭の中ぐるぐるだったのが消えまして、知らないうちにニッコニッコしてました。
ホースセラピー!!!
馬ブーム、日本にくるって思ってます。
馬が好きです。
というと、え?
あ、競馬?
となり、違うとわかると、かわってますね。
って雰囲気になるのが終わりを告げるのももう少しです!
しかも馬頭琴はじめた理由がお馬さん好きだから。
っていうと冗談にとる人もいます。
でも本当に楽器に馬の顔がついてなかったら、馬のリズムや馬のいななきを表現するのにこんなに適してなかったら、やってません。
断言。
楽器に馬がついていて、馬頭琴の由来がお馬さんそのもの。
もっと愛されていいんじゃないか。馬頭琴。
がんばろう。
薪ストーブに火を入れた。
薪ストーブに火を入れるのにまずロウソクに火をつけた。
手でかざして歩く。
手が暖かい。
夜は電気を消す。
薪ストーブが灯りになる。
カーテンを開ける。
外を眺めてるとアラスカでのテント生活を思い出す。
寝る以外は外で流木を集めて焚き火する。
鍋で料理して、あとは焚き火を眺めている。
先日の成田の古民家での朗読コンサートで、山川建夫さんが、山尾三省の火を焚くという詩を読んだ。
その詩の中にもあったが、
炎をみつめていると、心の奥を見つめる感じになってくる。
炎の前では裸になれる。
自分に嘘がつけなくなり、飾れなくなる。
たまに素に戻ることは必要だ。
今の現実を一回まっさらにして、想像してみる。
もし私がゼロだったら、何する?
旅に出る。楽器一本かついで。
それから山並みがどこまでも続くようなところに住んで馬を飼う。
二頭。
一頭じゃ仕事でいない時もう一頭が寂しいから。
その牧場はどこまでもどこまでも限りなく広くて私がいない時は馬は自由に走ってる。
道がないからその牧場に行くにはセスナ機に乗って行く。
アラスカ行った時には車の代わりに使い古るされたセスナ機が小屋の隣に横付けされてたけど、あんな感じ。
ベットと薪ストーブと本棚があるだけの山小屋があって、そこに寝泊まりする。
笛を吹くと、馬がその音を聞きつけて遠くから戻ってくる。
小屋のすぐ脇に馬が寝るところがあって、寝ながら馬の寝息が聞こえる。
そんなことを自由に自由に頭の中で思い巡らして薪のはぜる音を聞きながら眠りに落ちる。
本当は何が幸せなのか、自分だけは見失っちゃいけない。
例えそこから遠いところにいても、自分の愛しているものや大切にしているものを手放しちゃいけない。
それは執着や現実からきているものじゃなくて、裸の自分が誰の意見も、誰の顔色も伺うことなくほんとうにそう思うことを自分が知っていること。
それを忘れないように
たまにでいい
頭を自由にしよう。