2018
やなぎもとさんでご紹介した南相馬市と浪江町でのライブの馴れ初め。
読んでない方はぜひ♪↑
はりきって早起き。
いつもは迎えに行くね〜!と渋滞や遅刻を回避するためにだいぶ早い時間を前田さんと竹井さんにはメールで送って、それより30分遅れで大体事は進むのに、
知らせておいた時間ちょい早めくらいでお二人をお迎えに。
二人ともなんとなくそうなるのは予感していたようで、ちゃんとスタンバイしてくれてました。
まず、絶対間に合いたい。
柳本さんは前日入りしているので、当日の午前中、野馬追講座があるからまずそこへ行きましょう!
と粋な計らいをしてくれました。
何がというと、そもそも私が野馬追に興味を持ったのは3.11の震災後に千葉日報より取材していただいて、色々話が弾んだ折に、記者の方が千葉から団体で相馬地方にボランティアに行ったら、相馬の人達に祖先の繋がりの人達が来てくれたというような歓待を受け、千葉の人達は事情が飲み込めず、そこで改めて千葉と相馬の繋がりを知ると言う事があったという話でした。
私もここ数年、千葉県内や、東北の太平洋側をあちこち仕事でまわるたびにそこの人から何とはなく、土地の歴史の話から戦国時代の話になり、馬の牧の話になり、岩手、仙台、福島と千葉の人と馬がその時代に移ったという話が耳に入るので、何故移動したのかどんな風に馬と人の関係はあったのか、戦国時代だから、やはり戦の理由なんだろうなと思いつついました。
なので野馬追も戦国絵巻さながらの写真など見るたびに、単純に馬のおまつりという興味と、真夏の開催ちょっと馬がしんどそうだなとか、色々と思ってましたが、神事なのか戦国絵巻なのかあまりよく分からないでいました。
まず二上さんの話は野馬追最終日の野馬懸の話に。
小人と呼ばれる白装束を着た人らが裸馬を素手で捉えて神前に奉納する。
相馬は元々平将門が祖先だという伝説があり、その伝説によると野馬追は千年の歴史。
ただ、文献に残る一番最初の記述は1597年。
この江戸時代の野馬懸は今でも原という地区があってその原に野生の馬を放牧していた。
この馬らは、完全に神事のためだけに放していた馬。
そこにお祭り当日は、数百人が入り、端から木戸まで馬を追い詰める。
最後は騎馬に乗った武者が木戸から外へ馬を追いやる。
そこからは騎馬武者は何と、木戸からそとに出ない。
木戸からでた野馬は馬だけで野馬道をはるばる小高城に向かって走る。
おそらくみちみち、監視と馬を追う人がいたのではないかという話。
そして一旦海の浜へ出て、潮水で清めてから再び野馬道を小高城へ。
たぶん浜辺りで小人が介在するんではないかと勝手な想像。
その話を聞きながら私は地図で見ながら想像して、それがとても神聖な風景に見えて感動した。
そしてその神事のためだけに広大な牧で沢山の野馬を放していたことも。
当時の人たちが馬をとても大切にしていたのがわかる。
そして選ばれた葦毛の三頭を捕らえて小人は捕らえた馬を当主に買い上げてもらう形で褒美をもらう。
そして当主は馬に願いを託して妙見(北斗七星)祈願した。
何を祈願したかというと、天下泰平、当家安全、相馬のあった中村藩領内の安寧と繁栄だったという。
二上さんが何度も強調されていたのは、野馬追の本質が合戦ではなく、相馬地方の平和と安寧を願うものだっということ。
だからこそ、原発事故の被害をこうむった相馬地方の人々の願い、平和と復興と野馬追本来の目的は一致するというもの。
野馬追は勇壮、戦国絵巻等のフレーズがクローズアップされるが、その源流は明治時代以降の観光化と猛々しさのイメージ先鋭化であったと。
戦前の帝国主義的な日本の風潮と野馬追の猛々しさが一致したために、そうなったという話でした。
それも明治になって、原に沢山の神事のためだけの野馬を保有していたことに、当時の政府は意味無し!ということで、禁止され、捕獲され、相馬の人達は神聖な馬を農牧や軍事に使うことを遠慮したため、外に全て売られていったということでした。
何度も二上さんが、本来の野馬追の目的とは、軍事的な合戦絵巻ではなく、
妙見に捧げる神聖な馬を追い、追った馬を野馬懸で捕らえ、藩領内のの安寧と繁栄を願うことであったと話されてました。
野馬追にとても興味が湧きながら、戦国絵巻には複雑な気持ちがあった私はとても腑に落ち、やはり野馬追を一通り見てみたいと思いました。
話を聞きながら
妙見さんは北斗七星を祀っていて、千葉神社もそうだし、モンゴルのカラコルムなど、あちらの方面から来ているのではないか、手塚治虫の火の鳥などにも馬が大陸から来た時にそちらの文化も入って来たというような事が書いてあるように思いますが、そんな事を思ったり、
風の馬というネパール、チベット、モンゴルとラマ教では色とりどりの旗に馬の絵を描き、経典を書いて、風にはためかせ、風とともに馬が祈りを天に届けるというのがありますが、それを思い出したり、
私のオリジナル曲の「風の馬」
そして「ポラリス」こちらは北斗七星ではなく北極星ですが、なんだかこの後の南相馬市でのライブは「風の馬に願いをのせて〜」というのをタイトルを頼まれた時に思いついたのですが、話の流れとどんぴしゃり。
また、ライブを、する場所が原地区という、昔の野馬追のために放されていた牧だったこともふくめて、一人、興奮していたわたしでした。
あと自分も八街市という江戸時代馬の牧だったところに住んでるというのも何かのご縁だな〜とか。
相馬の野馬追が、星に願いを届けるための神事であり、今の相馬地方の平和と復興を願う本来の意味が再び広く見出される事を想います。
南相馬市博物館学芸員の二上文彦さんの願いが広く知られますように。
そんな話を聞いて次に向かうは、その古代の牧であった原地区へ。
柳本さんが繋げてくれた37カフェ@parkへ。
店主の安齋明美さんと、ここのオーナーの保育園園長でもある近藤能之さん、みんな共和国の国王という方と、なんだが次々とあらわれるニコニコした方々。
ちょっとずつ見えてきたのは、この方達は震災後の放射能汚染にさらされた地に少しでも子供たちが外で遊べるように除染と遊び場作りに尽力し、また子供たちとお母さんの場作りをしてきた方々で、この37カフェその一つだということ。
前に東京のデパートでこの絵柄の大きな風呂敷を売っていて、とても惹かれたけれどお高かったのでやめた。
今思うと思い切って買えばよかったな。
Tシャツのおじさんはマーちゃん。ボランティアスタッフの一人で、子供係。遊ばせるのもうまいし、寝かせるのもうまい。一緒に写真撮ろう!と誘うと照れてしまい。
ライブ後にお昼ゴハンを食べましょうということで、お茶をいただいていると、安齋明美さんが、小腹空いてるでしょう?と、ホットケーキを作ってくれました。
ありがたや〜
それから南相馬市を後にして、浪江町へ。
ここでのライブは青田荘という今年オープンしたゲストハウス。
小林奈保子さんと和泉亘さんが経営するここもまた、人の交流の場となっている。
奈保子さんが、浪江町を案内してくれる。
テレビで見ていた、イノシシやアライグマが荒らしてしまっている商店街の店から中に入ると綺麗な新住宅街に見える。
除染したので新築のようなんだということでした。
ほぼ空き家でこの辺り住んでるのは10軒くらいということでした。
そして請戸の港へ。
校長先生の山に逃げるぞ!という咄嗟の判断で大平山へ、先生と生徒全員助かったそうです。
ここは大平山の中腹にある慰霊碑もある公園。
放射能関連施設と請戸小学校が浜辺に。
小学校の避難の話を聞いて、本当に良かったなと思うと同時に聞いたもう一つの話。
福島が天災ではなく人災でもあったという柳本さんの話を思い出します。
請戸地区はほぼ壊滅状態。
津波の後で消防団などが瓦礫の下から呻き声が聞こえて、日没まで救助を続けるも、暗くなってからは逆に危険だということで、必ずまた明日助けにくるからがんばれ!
と声をかけ、あちこちでまだ呻き声が聞こえる中引き上げた。
そして次の日救助にいこうとしたら、放射能で立ち入り禁止。
救助に行けなかった。
そんな話を聞きました。
あらなぜか写真掲載ができなくなってしまったので、青田荘でのライブ模様は次回に続きます!