2018
芸術は普遍的なものに触れようとする行為なんじゃないかと思う。
その過程で生まれてくる作品。
作品を通して受け取る側もまた普遍的なものに触れる体験を共有する。
物事を俯瞰してみる。
他者の痛みを想像できる。
今の社会で起こる様々な悲しい出来事にふれるとき、この2つはとても大事な事だと思う。
辺野古にしても、外国人労働者の事にしても、様々な事象は自分を通してみる事になる。
それは子供でも大人でも。
だから意見が違うのは当たり前だ。
だからこそ俯瞰してみたり、違う側面がないか疑ったり、自分の痛みとして感じたりする事がとても必要だし大切だ。
色んな場面でやっぱり教育に尽きるなと思う。
なかでも芸術教育がものすごく大事なんじゃないかな。
生産性が一頃話題になったけれど。
つまり生産性のないものはだめ。
生産性がないものにこそ価値を見出し、そこにある豊かなものを知る事こそ芸術教育なんだと思う。
ないがしろにしてきた事が、今の社会の現れだし、それでも色んなところでちゃんとしっかりそういう事をしてきてる人たちがいて、その人達の蒔いた種が芽を出しちゃんと育っている事が希望だ。
そう思うと亡くなった父がしてきた事、それを学んで子供達に伝える事をずっとしてきた先生方を改めて素晴らしいと思う。
文芸教育研究会。
学校は様々な環境の子供達が集まる。
その子達に文学作品というものにどう向き合うのか、先生も真剣勝負だ。
先生が向き合えていなかったらまず子供達に伝わるはずがない。
本物にちゃんと触れた時に与えられる感動を共有したら、人は変わるしクラスも変わる。
そんな事例は学校現場の先生方なら体験している事なんだと思う。
他者との違いを面白く感じ、愛おしく感じる事を作品を通して、作品を体感して味わう事を通して体験していく。
子供達の幼児教育や学校教育の中にこれがあったら、どんなに豊かな社会になっていくだろう。
その子はそんな物の価値や見方を身に付ける事が一生の宝物になり、また活動の力になる。
まわりが敵だらけから、豊かな世界である事を知るようになる。
国語や音楽や美術の授業だけじゃない。
芸術というのはそもそもこの世の全てのものが対象なのだと思う。
芸術というと何か堅苦しいものと思われがちだけれど、どんな人にも人である限りその要素があり、それに魅力されてしまっている人とそうでない人の違いだけだ。
作品を生み出す側であっても、それを受け取る側であっても同じ所にいて、ともに芸術を楽しみ、受け取り、生み出す事ができる。
自分の人生を豊かにしたい。
自分のいる世界を豊かにしたい。
誰もが願う事なのだから。
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このブログに感想を下さった小学校の先生。
かよこさんより。
許可頂いて、添付します。
以下。
ブログ読みました。全く同感というか、代弁してもらった感じ。有難い💓
実際、年々、学校現場から芸術教育がなくなってきています。というか、ないに等しい状態。活動主義的な教科の授業で考えたり想像することを奪い、徳目道徳教育でしばるというような状態。(あくまでも私から見ると)
小学校は、全教科しなければならず、中学校の音楽が本免で、たまたま最終的な採用の段階で副免の小学校に入ってしまった(おかげで西郷先生とも美炎さんとも出会えた!)私にとって、学級づくりは、自ずと音楽を柱にというスタートでした。2校めで出会った尊敬できる先生が文芸研に誘ってくれ、私の中に学級づくりさらに太い柱がもう一本できました。西郷先生の授業を見たのもその頃。著書にある『文芸は、言葉の芸術です。』という言葉に惹かれました。
芸術教育、本当に大事だと思います。本質を求めようとしないというか、求めようと思わないくらい管理され忙しくさせられている現場です。非常勤で入っていると先生方が気の毒。でも、私は、入っているクラスの担任と親しいため、一学期に一本は、子ども達と文芸の授業をする時間をいただいています。ありがたいし、楽しいです。
なんだか、だらだらとメッセージさせてもらいましたが、投稿コメントのかわりです。
この記事へのコメント
小学校の先生の教育に関するコメントに、本当にまじめに取り組んでいらっしゃる先生が居られるのに、改めて先生の、人間としての本当の教育を感じました。生徒たちが先生の立ち姿、話し方、聞き方とかを見つめる姿が浮かびます。もっともそのまえに、親御さんの教育に対する認識を深めさせることが必要な平成時代でした。一般に言う学力の向上も必要でしょうが、人としての、基本であると思う、あいさつに始まる、人と人との優しい、思いやりのある行動は、この、あいさつからではないでしょうか、家族に、「おはよう」、ご近所さんに、「おはよう」、友達に、先生に、まずは、おはようから人生は始まると思っています。昭和18年生まれの関西ジーデス。