2014
背筋がぞくっとした。 二回くらい。
一度目は車人形の古柳さんが舞台に出て来た時。
稽古や本番や撮影の本番含めて何度か芝居を同じ舞台の上で見ているにもかかわらず。
一緒に出てると見る側じゃないというのはこういうことか。
稽古と本番が違うのは分かるが、今日はお客で堪能できて良かった。
人形に乗り移るとか人形と一心同体とかいろいろ言い方がありますが、途中から古柳さんが人形の背後霊?と思ったり、古柳さんを見たり、人形だけを見たり、しまいにはどっちみてもいいか。どっちも一つだから。と思う。
楽器をあんな風に使えるだろうか? あんな風に一体になれるだろうか?
古柳さんの気迫が人形に移って、古柳さんが舞っているのだけど、舞っているのは人形。
ダンサーが舞うことよりも、楽器を使う自分と重なり、そこまでの存在として楽器をみていない、寄り添っていないと思えた。いや。逆に言ったらまだまだ楽器と重なり合う事が出来るんじゃないかと思った。
耳なし芳一の演目ではいつもお世話になっている筑前琵琶の室井三紀さんと女流義太夫の方々。また迫力があって途中怖くてぞくっとした。笑
そういえば子どもの頃にこの話し聞いて本当に怖かった。耳を押さえて聞いた。
夢枕獏の陰陽師の話しにもあるが、霊は本当にうまい楽師がお好きらしい。でもだからといって、それを楽しんで聞かせてもらった後で喰わなくてもいいだろうと思ってしまうが。
喰われてしまうということでは、舞台にのまれる。という言葉がある。あれが、のまれる。という言葉を使うのはなんかこの辺と似ていると思えた。
のまれる。というのは、舞台の上に立つと分かるがその舞台そのものが持つ気迫だったりお客さんが持つ気迫だったり当たり前だがいちいち毎回違う。
なんか不思議なのはお客さんにも技量みたいのがあって、何なのこの否応なく気迫が満ちてる感じは、という時がある。
そんな時自分がへっぴり腰だとのまれる。霊の方でもそんなのには用がないんだろうな。魑魅魍魎とした何かであってもそんなものものともしない、のまれないものがいいらしい。耳なし芳一や、陰陽師の話しは案外舞台に立つものは日常として経験しているのかもしれない。
実は喰われているか。喰っているのか?!
化けて出る話しでは、先日の着物ドレスの小林先生とも狸や狐に化かされる話しになった。
山形で村の家に遊びに行くと、普通に種や狐に化かされた話しが出る。
そういう話しがあったんだって。ではなく、この前もね、化かされたんだよ!という日常の話しなのだ。そういう感覚とそういう日常を生きていることと。まったく同じ場所で生きていてもそこに気づかないことってあるんだろうな。
子どもの時ってすごく豊かな世界に生きていたと思う。その世界を取り戻す方法はいくらでもある。物語はそれを可能にしてくれる。
見終わって挨拶に行くと、古柳さん。 美炎さん、またその顔はなんか企んでるな?と目ざとく言われた。はい。そうですよ。笑
それにしてもカーテンコールのフラメンコはなんですか?古柳さんフラメンコうますぎ。なんでフラメンコ踊れるの?お人形さんが踊ってるの?
写真は差し入れに持ってった可愛い子。