2016
まるでこれから旅に出るような感覚。
必要最低限のもの。
長期の旅に出るとき、それが原野だったりするとき、生きていくのに必要なもの以外にも必要なものがある。
例えば本。
それから自分の好きなもの。
これ持っていくと心が和むとか、ふと目に入るとニヤッとするとか、そんなもの。
三か月アラスカへ旅に出る前、まだ馬頭琴と出会ってなかった私は一万円のバイオリンを骨董屋さんで手に入れて、持って行こうとしていた。
ユーコン川は全長3,000キロ。
日本列島とほぼ同じ。
大河なので、一部分をのぞけばかなりゆったりした時間が流れる。
そんな合間に音楽をしたいと思った。
でもメンバーは2人きりで、ゴムボートも持参となると、やはりバイオリンは最終段階で諦めた。
そのかわり、日本から持っていったもの。
中華鍋。
これ、大当たり。
つまり、川の上にいる時間以外は、夕方テントを設営する川の中州の上にいる時間が長い。
寝る以外何をするかというと、焚き火だ。
流木は幾らでもある。
焚き火自体が楽しい。で、これで何するか、
そう。料理。
中華鍋と焚き火の相性は抜群だ。
大きめの流木が二本もあればその上にぽんと置いて、煮込みも、スープも、炒めもできる。
不安定な足場でも、底が丸いと幾らでも調整できる。
共に持って行ったのは、日本の乾燥食材。
例えば、干し椎茸、キクラゲ、干しエビ、片栗粉、とにかく、軽くて痛まず、使い回しのききそうな食材をなるべくたくさんの種類持っていった。
おかげで、流域に点在している小さな村のグロッサリー(雑貨店)で、じゃが芋や、ちょっとした食材を買えば、工夫して、中華料理や和食や、なんだか不思議な美味しいものをいろいろ作って楽しめた。
中華鍋と乾燥食材を持って行かなかったら、このアラスカライフは半分くらいつまらないものになった気がする。
バイオリンは持って行かなくて正解だった。
あの3ヶ月のアラスカの何もかもが私の中に入り込んで、いまだに断片となって蘇ることがある。
きっとそれが私の今の音楽の中にある。
中華鍋のその後、ゴールは海。
川というのは海に注いでいるから。
もう10月に入っていて、少し雪が降ったり、川の端がうっすら凍ったりしていた。
中流域はインディアンの村だったのが、海辺に近くなるとエスキモーの村になる。
(インディアンをネイティヴアメリカンと呼ぶとか、エスキモーをイヌイットと呼ぶとか、気をつけていたけれど、その当時出会った人達は、自分達をインディアンとエスキモーと呼んでいた。)
完全に海まででてしまうと、もう戻れないような気がした。
以前山形の最上川を下って海まで出た時、海の波をまともにくらって、船を転覆させたことがあった。
その時、海は全く未知の世界だと思った。
おそらく最後のこの海辺の村を通り越して海にでてしまうと、そこから村に戻るのはかなり難しいだろう。
と早々に判断して完全に海に出る前に少し小さな支流沿いにボートを漕ぐ。
家々が見えてきたところでボートをあげて、そこにテントをはることにする。
中華鍋はすっかりくたびれてる。
毎日3ヶ月、焚き火にあぶられて。
日本に持ってかえるものと、置いてくものをわける。
捨てるものを岸辺に分けて置いておいたらしばらくしてあるエスキモーの男の人がそれらのものを珍しそうに眺めていて、そのうち手にとる。
これ、いらないのか?
うん。
というと、もらっていいか?
ときかれる。
もちろん!
そして中華鍋は彼の家に引き継がれることになった。
乾燥食材の残りは、何かを獲るときの餌に使いたいと言って、私たちがゴミとして処分しようとしていたほぼ全てを彼は引き取ってくれた。
それから、彼は、うちでスープ飲んでいかないか?と私達二人を誘ってくれた。
喜んで伺うことにする。
スープは大鍋の中に日清のカレー味のインスタントラーメンを味付けとして使っていて、ムースの肉がゴロゴロ入っていてなんだかとても美味しかった。
そこに泊めていただくことにした。
もうテントでは寒いのだ。
家ではストーブをガンガンたいていて、みんなTシャツだった。
エスキモーの人たちの暮らしをら知りたくていろいろ質問攻めしていたら、向こうも興に乗ってきて、アザラシ狩りに使う伝統的な槍を見せてくれた。
どうやって獲るかやってみせてくれて、食い入るようにみていたら、明日、アザラシ狩りに連れて行ってやるといった。
つづく