2018
肩の荷が下りた
山鹿公珠先生と里見一族の小説を書いた夢酔藤山さんが、昨日の里見の会の後でお客様を皆見送った二人ともが言った言葉。
聞けば山鹿先生はもう10年もこの里見の挿絵を手がけている。
夢酔さんの方は里見八犬伝で有名な里見だが、実際の歴史でどのようなものだったかを大量な文献を参考にしながら作品を書いた。
もういいだろ里見は喜んでくれただろう。
よかった。
そんな言葉が何度もあちこちで。
私はといえば違う用事で山鹿先生の元を訪れたり、里見とは違う企画での演奏をしに来たり、する度に山鹿先生から里見の話や挿絵の話、絵を見せていただいたりしていた。
そして膨大な量になる里見の挿絵の740枚を厳選して100枚ずつ展示してコンサートをする会をこの2.3年で数回やっており、私も何度か演奏したりした。
初めて山鹿先生がファイルに綴じた挿絵を見せてくれた時「そりゃ少しは調べることもあるのよ。でも実際にはどんな景色でどんな顔してて、どんな風な場面だったかなんて分からないし、想像でほとんど書いてるの。でもなんかその場面が出てくるのよね。
不思議なんだけど、あらこんな顔してたんだわ。とか、こんな景色なんだわ。とか浮かぶのよ。」
秀吉の顔がどんと大きく描かれている絵があった。
私は戦国時代の話は日本史の勉強の中でももっとも訳が分からなく、興味もなかった。
むしろ避けて通っていた。
それなのに、その絵を見たら涙が止まらなくなった。
自分がなぜ泣いてるか分からず、その時の感情も説明できない。
ただ、私はその時から戦国時代にとても興味が湧いた。
そして山鹿先生を通して里見に何かご縁を感じた。
その時から、里見の曲を作らなきゃね。
と誰かに言われた。
私の中では「月みちる」という曲は、曲の頭に合わせて荒城の月を弾くこともあって、何となく戦国時代と繋がっているイメージの曲でもあったので、それでだめかな?
なんて思っていたのだけれど。
なぜか全く分からない秀吉の絵で涙が止まらなくなった時から、司馬遼太郎の戦国時代について書かれた小説や、歴史の本や、テレビなどで漁るように読んで、見た。去年の9月に山鹿先生の所でコンサートした時に山鹿先生が「夢酔さんがね、里見の曲を作って欲しいと言うのよ。
だから私はね、あら高いわよ!!
って言ったの。それに、作ってくれるか分からないんだから、万一作ってくれたらラッキーね。
って言っといたわ。」
その話から、私にプレッシャーを与えないようにしてくれているのがよく分かった。
そう。
里見の曲は作らないといけない。
山鹿先生が、3月11日に里見の会を最後の集大成としてやるからその時また演奏してね。
と言われた。
期限はその日か。
だいぶ時間があるから大丈夫。
以前にも書きましたが、私は作曲の勉強をしていないし、楽典も知らないので、机に向かって、さあ。作曲しようと。
いうわけにいかない。
ふとしたはずみに湧いてきたものをあわてて取り上げて、形にするだけ。
そのふとしたはずみが訪れなかったらなすすべはない。
日々の中でその為に何かをすることはないし、ただ、頭の片隅にはいつもそのことがある。
プレッシャーではなく、里見の曲。
というものを自分のどこかにインプットしておく。
二ヶ月くらいたってもシーンとしているので、ドラムの前田さんを誘って山鹿先生のところへ行く。
里見の話をもう一度聞くためと、ギャラリーのすぐ上にある山の上の滝田城にいくためだ。
ドラムの前田さんははやり戦国時代に今まで興味がなかったようだが、ツアーなどで一緒に各地を訪れているうちに、なぜかそんな所縁の場所が多く、自然と興味を持ったようだ。
この曲の中では絶対に戦いの場面が必要だと思ったので、剣は前田さんに任せるわ。と思っていたので前田さんにも里見の事を感じて欲しかった。
ピアノの竹井さんというのは面白い人でなぜか百パーセント私に信頼を寄せてくれていて、美炎さんが感じてくれば、それで大丈夫。みたいなスタンスにいるので、美炎さんと前田さんよろしくね!と見送られる。
お城へ行った。
しばらく曲を弾いて、その後適当にいろいろ弾いてみる。
さして何かのフレーズが浮かんだりはしなかった。
でも弾きながら最後の里見の殿様の忠義さんのお母さんの風さんが高いところから海を眺めている様子が浮かんだ。
あとから、そうか山鹿先生が書いたあの絵だったんだと結びついたのだけど。
山から下りて山鹿先生のところへいくと、山鹿先生が話してくれた。
「私ね、この新聞小説に挿絵を描いて欲しいと言われた時とても迷ったの。
歴史になんか全然詳しくないし、膨大な量だし、描けるか全然わからなかった。
そしたらある人が、頼まれたってことは、できるから頼まれたんですよ。
って言うのよ。
頼まれたんだからできるんだって。
そうなのね。」
と笑って言った。
曲作るからお城に行ってくるといったわたしに、ああ曲を作ると決めたんだなと察して、励ましてくれた。
その言葉は私に大きく作用したと思う。
あ、できるんだと思った。
いつも自分勝手に作りたいものを作り、できなきゃ後回しだし、作るつもりのないものができることも多いし、そんないい加減なので、やっぱり頼まれるとプレッシャーは感じていたようだ。
できなかったらどうするんだろうと。
頭で考えて曲というのは確かに幾らでも作れる。
でも本当に、それがその曲なのか、自分ではわかってしまう。
できたものが、そうであるのかないのか。
だから、そうでないもを幾ら作っても仕方ないのだ。
できなかったらごめんなさいするしかない。
でも作りたかった。
最後の里見の会にその曲を弾きたいと思った。
お城へ行ってから二週間後くらいの夜中に寝ようとして布団の中に入った途端に出てきた。あわててスマホのボイスレコーダーをオンにして、歌う。
歌いながら里見の風さんの一瞬だったかもしれないけれど、幸せだった時間や、切ない気持ち、そして戦いの場面とその後の歌、流れてくるようにできた。
譜面におこせない私はというと、その鼻歌を竹井さんにいつもなら送る。
だいたいシンプルな曲が多いので、特に、ここはこんな風にして欲しいと言わなくても竹井さんはドンピシャにコードをつけてアレンジしてくれる。
これはちょっと仕組みが必要だと感じたものは一緒にアレンジしたり、その前にある程度設計図みたいにして、竹井さんに送ったりする。
というか、竹井さん自身が、送られてきたメロディーに対して、何も聞かずに、はいっ!ってさっくりやる時と、あれ何?なにがどうなってるの?
というわけで、一緒にあーだこーだ、ここはこんなイメージでピアノはこの場面でこうして欲しいとか説明する。
で、面白いのは、ふと湧いてきたメロディーが、あ!いいものができたと思うのに関しては、竹井さんはあっという間にアレンジしてくれるのに、これは?一見いいもののようだが、なんかどうなんだろう?ってときには、いつまでたってもアレンジが仕上がってこず、あれごめんねもうすぐやるからと言われて、私も、あれ、いいや、やらなくていい。
と日の目を見ないことになっている。
竹井さん曰く、メロディー聞いて不思議なくらいすぐ浮かぶんだよね。あ、こういう曲だって。
で、浮かばなかったやつは、結局弾いてもその時受けたりすることもあるのだけれど、なぜか自然とお蔵入りになるのだ。
で今回戦いの場面はこれは頭の中になっているのを整理しないと竹井さんに送れないと思ったのでキーボードをつかって、下手な譜面を書く。
たまにあるのだが、戦いの場面ではピアノのメロディーを作った。
馬頭琴は後から作った。
そして出来上がったのが1月。
新年の3日の日には三人で集まり仕上げる。
前田さんには毎回好きなようにやってもらう。
もう一つあった問題。
それは新しい曲を弾く時に起こる緊張問題。
しかも弾きやすい曲ではない。里見の会の前に何度か本番で弾きたい。
そうすることでどのように弾くかがわかってくるし、やはりアレンジも進化する。
1月に君津のホールで、そして稲毛で。
3月に千葉市議会コンサートで、少なくとも里見の曲を弾いても様になる場所が三回あったのはありがたかった。
それも念頭にあったので年明けには完成させたかった。
小説を書いた夢酔さんが、里見を大河ドラマにという活動もしているので、大河のイメージで作ってはいた。
するとどこで弾いてもお客さんが大河ドラマの曲みたいで、情景が浮かびました。
大河ドラマになるといいですね。
と、ドンピシャリなことを言ってくれた。
さて里見の会当日。
里見の子孫の里見流の舞のお師匠さんや踊りの人、夢酔さんのコーナーなどもあり、
いつも山鹿先生のイベントの日には東京から駆けつける、なくてはならない存在の飯沼さんが、去年ギャラリーの15周年だったのに何もできたなかったから、サプライズで何かして欲しいということで、先日山鹿先生に、美炎さんの歌大好きなの、何か歌ってね。
と言われていたので、歌を歌うことにしました。
勇気が湧くと、たまに歌うのですが、そんな歌をたまにとても好きになってくれる方がいます。
でも緊張してるのが丸わかりなのでかなり恥ずかしい。
ところが最近、歌の詩を書いてしまったりするので、やはり歌う場面がちらほら。
去年春前に作った曲。
桜吹雪は詩を書いたのですが、去年の春には勇気が出なくて歌いませんでした。笑
何を歌うのがいいのか考えてもどうしても浮かばず、春だからやはり歌う機会のまだ一度もない桜吹雪を歌うかなと思い、前日に歌ってみたところ、あら、これは里見に作った曲ととても似てると思ったのです。
何がと言われると、メロディーとかではなく、イメージが。
まるで連歌のようだと思い、やはりこれは里見の曲、「風の国〜仁〜」の前に歌おうと思いました。
いつものごとく、前日に竹井さんに明日は桜吹雪歌う。
というと、
当日になって、竹井さんも同じことを感じてました。
似てるよね。
と。
普通似てるよねというのはあまり良い意味ではなく、似てるからどっちか一つはやめておこうとか、何かに似てるというのは、真似とも言えるので、ちょっとマイナスな意味がある事があるのだけれど、今回あえて、何が似てるかわからんが、イメージぴったりなので、連歌だと思って繋げることにしました。
一部は45分のトリオコンサート。
休憩をはさみ、夢酔さんの講演と山鹿先生の話。
里見流の踊り。
そしてまたトリオで二、三曲弾いて最後に里見の「風の国〜仁〜」でラスト。
という予定。
里見の踊りが終わってから、
花は咲くと桜吹雪を歌い、風の国を弾いて終わることにしました。
ギャラリー15周年おめでとうございました。
と、東北の震災のこの日を想う「花は咲く」と、山鹿先生のために「桜吹雪」と、里見の曲「風の国〜仁〜」という曲の紹介を話した後に歌ういました。
あの濃い時間は不思議なくらい空間も時間も羊羹のようでした。
里見の曲を弾く前に、
戦国時代というのはどこの家であっても波乱万丈。
ただ、その戦国時代にあって、「仁」
人を慈しむ心を一番大切にした里見忠義。
そこに深く心を打たれる。
ということを言って弾きました。
特別気負っていたわけでもなく、割と淡々としていたのに、指が動きませんでした。
あとから録音をきくと、それなり弾いてはいたので安心しましたが、後半の戦いの場面では指より弓を思いっきり動かせるのでそこで解けてなんとかなりました。
後から聞くと、竹井さんはすでに花は咲くから身体が動かなくなっていたそうです。
スマホで動画を撮ってと頼んでいた友人は、涙が勝手に流れて撮れなかった。ということでした。
とにかくやり終えた。
そんなきもちでした。
たぶんみんな。
なんとも美しいクリスマスローズのアレンジを持ってきてくださった母娘のお客様からメッセージをいただきました。
みんなで終演後になんて素敵なクリスマスローズのアレンジだろう。
この場所にぴったりだと眺めていました。
後から頂いたメッセージで、その日の朝にお母様が思いついて急遽アレンジして持ってきてくれたのだそうです。
お母様はこの近所で娘さんのメッセージには、私も幼い頃より里見のことは身近に感じて育ちましたとありました。
事前に予約されていたお客様の倍以上の方が当日みえて、皆でびっくりしましたが、呼ばれて集まった人達としか思えませんでした。
供養にと花を持ってきてくれたり、やはりこの日は皆の気持ちが一つになって里見の供養の日となったのだなと思います。
山鹿先生に前に頂いた着物をアレンジして着るならこの日しかないと、いつも演奏会や遊びに同行してくれる藤村さんに頼みました。
みんなで浮かれて撮影会。
写真はスイスで写真をとってくれた純姫さんと竹井さんの旦那さん。
山鹿先生が、里見の曲の「風の国〜仁〜」を聞いて書いた里見の絵。
大きな麻布に一気に描いたもの。
それにぴったり重なるように座ってと、椅子を直されました。
里見の想い、里見に携わる人の想いがこれから拡がっていくといいなと思います。
風の国〜仁〜
CDに入ってませんかと弾くたびに聞かれます。
山鹿先生と夢酔さんからCDを製作して欲しいとお話がありました。
今のところ一般に発売予定ではありませんが、里見の事を広く知ってもらうための活動の一つとして。
昨日の今日。
留守電のメッセージに山鹿先生から、桜吹雪の歌も一緒に入れて欲しい。
とありました。
やっぱり連歌なのかな。
右が里見流の先生。
下の写真は小説を書いた夢酔藤山さん。
そしてあり得ないおまけが。
いつも山鹿先生夫妻をお手伝いするの東京の飯沼さんが、何かをやらかして、三枚の絵が無くなったと思った山鹿先生が、その三枚を再び描いた。
そしたら、あれ?その絵あるよ。と飯沼さん。
あらやだ!どういうことよ。
というので、山鹿先生がその三枚を私にくれました。
どの三枚かは、いつか紹介します。
「お金じゃないのよね。こういうことって。里見がお礼に私に書かせたのね。」