馬頭琴奏者 / 美炎 miho 公式サイト
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 ドア- 2016/05/17 -

Category : BLOG

ドア

よんでいるのはだれですか。

私の心の奥のほう。

ドアをたたいているのはだれですか。
なんだかここちよくてねてしまいそうになるときもありますが、
こんこんひびいているうちに涙があふれるときもあります。
音がひびかないようにふさいでしまおうかと思うこともありますが、
例えふさいでしまっても、

あなたはずっとそこにいる。
ドアをあけたら再びあなたにであえるのでしょうか。

それともまぼろしなのでしょうか。
だからまだ、ドアはあけません。

ときには、子守唄にして、

ときには、ひびが入りそうになっても
わたしはこうして、ドアをたたく音をきいています。

.

  

 はみだす勇気- 2016/05/16 -

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放置プレイ。

先日ギターのナリさんとマザー牧場今季最後の演奏の合間にまたまた話が弾んでしまい、はっと時計を見ると五分前。あわてました。

ナリさんが、何という質問をしたのか忘れましたが、答えているうちに、私は親にどう育てられたのかという話題に。

ついこの前の山形でもなぜかその話題になり、母校の学園で、親の顔が見てみたい。と何度言われたか。というおっかない話と、私の母もまた、どうやって育てたらああなるのかよく聞かれるという話を聞き、ああなるのか、とはどういう意味なのか私が逆に質問したいところです。

ただ、その話題の中で母が、とある人に私の幼少期をとても心配されて、もっとちゃんと躾けるべきじゃないのか小言をよく言われたけど、そうしなかった。

という話がありました。

その後私は少し大きくなった時に、この事で少し苦労しました。

こうするべき。というのが割と欠けていたからだと思います。

まあでもそこは、こうすると怒られる。こうすると嫌がられる。という実際の体験を通して、学ぶことになるので、若干痛い目にはあいますが、その方が学びとしては効率いいのではないかとも思います。

そして、私にとって大切なのは、こうするのは、人が嫌がるかもしれないから、こうする。

という順序があることで、そことは別にしっかりと、でも私がしたいのは、こうだ。

というのがはっきり自分で分かっていることです。

私の子供時代は、父は仕事で日本中旅していましたから数週間家を空けることは多く、たまに会うと、本屋で好きな本を好きなだけ買ってくれる。

それと、美炎子は今何が好きなの?何に興味あるの?という話題を振られる。

答えたことに関して、ただニコニコと聞いている。

私が何か質問すると、逆にあなたはどう思うのか?どう考えるのか?聞かれる。

その答えは否定されることはなく、答えがどんどん展開していくように、今思えば、導かれる。

父に関しての子供時代の自分との関わりは以上3点。

私の学校の通知表を一度も見たことはなく、行事にも一切参加したことのない父。

それが父の一貫した考えのもとの一つのあらわれだろうというのは、何となく感じていたので特になんとも思わなかった。

母は、勉強や活動で忙しく、都内に行くときは、私をサンシャインの水族館に連れて行き、そこにお留守番させる。

私は数時間そこで過ごす。

あとは本屋か公園で数時間過ごす。

そんなことが多かった。

寂しいとおもったことはなく、逆に喜んでその時間を過ごしていました。

いつのまにか、子供、大人に関わらず、お友達をその場でつくり、お世話になる。

やりたいことはとりあえず何でもやらせてもらえた。

それは非常に恵まれていたと思います。

長続きしないから、どうせ練習しないから、と頭から反対されることは一度もありませんでした。

自由奔放に育つとどうなるかというと、そうはいかない枠に入った時に、非常に苦しみます。

逆に、人に迷惑をかけないようにと厳しく育てられた人は、このような枠の中で割と楽にいられるのではないかと思います。

母はある意味実験していたのだと思います。

自由奔放に育てたらどうなるのか。

私としては自由奔放というなら、いっそ山の中で育てて欲しかったという気がありますが、そこは、高校時代を山奥の寮生活を選んだことである程度満たされます。

中学時代、私は反抗期で、家にいない父を相手ではなく、母に一切口をきかない。

という手段にでました。

反抗期とはなんだろうかと考えると、結局は、小さい頃というのは親は絶対ですから、いくら自由奔放とはいっても、そこには母の思惑があった。

小さい頃は実は頭で理解してなくても、親の思惑というのを、嫌という程分かっているのだと思います。

感覚で。

認められたいから、親の通りに生きようとする部分が少なからずあるように思います。

もちろん日々、駄々をこねたり、反発したり、いたずらをしたりして、ハミ出そうとするのですが、所詮幼いのでうまくいかない。

中学くらいになると、親が人間だということがわかってくる。

そうすると、なんなの一体?なぜ今まで私は親に操作されなくてはいけなかったのか。

というところで、いままでの仕返しをしてるんだと思います。

子供の反抗はいつでも正しいと私は思います。

親は知らず知らず、子供のためを思うあまり、そこに、自分の願望を込めている。

子供はそのいいなりに少しでもなってしまっていた自分に腹が立ち、親に腹が立つんだとおもいます。

だから、とてもいい過程だと思います。

そこで精算されるのですから。

そこで精算がうまくいかなかったら、あとは大人になって自分自身が苦しむことになってしまう。

相手になるはずの親はもう年老いている。

自分一人で自分を相手に精算しないといけなくなるのだと思います。

だからそれを考えたら、反抗期の子供をもつ親は、パンチを受ける器になってあげるのは仕方ない。じゃないと、自分自身にパンチをするようになってしまうからだと思います。

ある程度子供はほっとくのがいいと思います。

じゃないと、親の思惑が強くなってしまう。

ほっとくと、意図していない意図が自然とその人に関われる余地が生まれる。

親オンリーだと、親の雛形ができるだけです。

それだと面白くない。

とまあ、偉そうに書いてしまいましたが、教育は教科の勉強だというのはほんの小さな事で、なんとかうまく人生を生きて欲しい。と願うと、いつのまにか社会に適応する社会のための人材を育ててしまう。

そうではなくて、その人そのものが、本当はなにを望み、その望みをあるいは探せること、追い続けられること。

それが結局は幸せを求めることなのではないかと最近思います。

親はそれを勇気付けてあげるだけでいいんではないか。

何か社会から外れてしまった子供をこのままではちゃんと生きていけないんではないかという不安から、元に戻すのは、せっかく外れるという行為で自分を探しはじめているのに、余計なお世話になるばかりです。

親というのはとかく余計なお世話をしがち。

それも自分が大人になって振り返ればありがたかったな。と思えることもあるかもしれませんが、ほとんどの場合、余計なお世話であると思います。

子供がもっともっとのびのび生きられる社会になったらいいなとおもいます。

みんな違う。それがはっきりわかる、味わえる、十人十色の方が世界は美しいからです。

人の色に社会の色に染まってしまっても、いくらでも気付いた時から自分の色を模索することはできる。

  

 美しい人- 2016/05/08 -

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おばあちゃんが集まる家。

山形の母校の裏に家があって、一年に一度は泊まりに行く。

山の中。

連休になると、地元のおばあちゃんとか、元この辺りに住んでいたおばあちゃんとか、もちろんおばあちゃん以外の人も集まるけど、昔話をしに来る。

山菜が自動的にあちこちから集まってくる。

そしてお台所でおばあちゃん達が腕を振るう。

連日山菜パーティー。

今回のおばあちゃんの中には、もとここの料理屋のオーナー、つまりプロがいて、煮物や天ぷらが、絶品。

もう一人は絶対に捨てないことに命をかけている(娘さん談)おばあちゃん。

お茶がらは佃煮になり、リンゴの皮はジャムになり、とにかく、細かく刻んだあらゆる小皿料理が並ぶのだけど、食べてみるととても美味しい。

これは何?ときくと、うどの皮。とか、大根の茎の麹和え。とか、ふきのとうの花の佃煮とか。

何となくこの山菜パーティーに毎日違う人たちが惹きつけられてきて、違う輪ができる。

でも皆母校の独立学園の関係者なので自然と学園の話になる。

親戚が東京から学園の古い先生に東京の手土産を持って挨拶に行った。

ものすごーく腰の低い先生なのだが、どうぞつまらないものですが。と菓子折りを渡すと、

いえいえとんでもございません。どうぞこんな立派なものいただけません。どうぞ東京にお持ち帰りください。

というやり取りを経て、なんとか強引に置いてきたらしい。

東京にお持ち帰りくださいと言われてもねー。とみんなで笑っていると、

その日の夕食に先生がみえた。そして楽しくたべたあとに、なんとその菓子折りを、本当にいただけませんから、どうぞお持ち帰りください。と置いていったと。

朝になって、その先生が、忘れ物を取りにみえた。

私が布団から飛び起きて、その菓子折りをつかみ、先生!これはぜひとももらってください。

と、渡すと、あら、じゃあいただいていきましょうか。と持って帰ってくれた。

みんなで、美炎ちゃんよく気がついたわねー!良かった良かったと言っていたら、菓子折りを東京から持ってきた親戚が、あら?なんだか私、金魚を預かってもらってる人にね、山形のお菓子をあげようと思って

こっちで買った山形のお菓子がね、ないの。

あら!そうだわ。私先生に間違えて山形のお菓子を渡してたんだわ!

あら大変。というので、先生に電話して、その菓子折りを戻してもらい、東京の菓子折りを無事引き取ってもらった。という、

まるでサザエさんのようなやり取り。

空いた時間にその親戚と部屋の整理をした。

なんと2年もその部屋の鍵が見当たらなくて、開かずの部屋になっていたという。

その親戚のおばあちゃんが、つまりその方も親戚となる訳だが、学園で100歳まで書道の先生をしていた。

その作品がたくさんその部屋には眠っている。

開かずの部屋にはもちろんヘックがたくさん。

カメムシの通称。

そのヘックを踏まないように、あれこれ整理する。

懐かしい書も沢山あったし、見たことないのも沢山あった。

これが、どうにも管理しきれないというので、来年あたりに学園で展示会をしたら、欲しい人にそれぞれ引き取ってもらおうかしら。

と言っていた。

これらを一つ所に常設展示ができないのはもったいない話ではあるが、それを叶えるのは大変なことなのだろうな。

  
ことば

すなわち

うめ

  
光の中へ

さらばさらば

百才梅

私は高校一年生の時にこの、梅子先生が亡くなったのだが、以前千葉の私の実家に来た時に、炎という字や風という字をかいてもらったことがあった。

今回

という字をもらった。

この書には、美しい人華子先生へと書かれている。

華子先生は音楽教師で創立当初から学園にいる。私のおじいちゃんの妹だ。

華子先生から、自分の姉二人は本当に美人で、ひっきりなしに男の人から手紙が来たり、すごかったのよ。でも私だけ美人ではなくて本当に若い頃はそれがコンプレックスでね。

とよく話してくれた。

でも亡くなった夫の忠雄先生にであって、全然かっこよくないから、がっかりしたんだけど、兄が、華子、こんなに素敵な人はどこを探してもいないぞ。と言われてね。忠男さんは本当に真面目で素敵な人で、それから自分のコンプレックスが無くなったのよ。と何度も聞いた話。

忠男おじちゃんのお母さんの梅子先生。

その嫁姑のやり取りの話も、完璧主義だったお義母さんと、どちらかというのんびりマイペースの華子おばちゃん。

そりがあわなくて、いろいろ大変だったあるひ、梅子先生が、私が悪うございました。

と華子おばちゃんにいったことから、本当に仲良しになった2人。

最晩年の頃、その華子おばちゃんに送った梅子先生の書。
美しい人華子先生へ

華子先生へなんて書いてある書なんて誰もいらないでしょ。だからね、美炎ちゃん良かったらもらって。

美炎の美の字だしね。

美しく炎のようにと名付けられた名前。

舞台に立ち、人前に出るようになってから、美しく。という事を意識するようになった。(それもかなり後になってからですが( ̄▽ ̄))

衣装や化粧、アクセサリーや靴、揃え出したらきりがない。

できることはなんでもやろうという姿勢でいると、ふとやりすぎる事があるかもしれない。

美しいとは何か。
毎度山形へ来ると、音楽の姿勢に関して初心に戻る。

そんな場所があることに改めてありがとう。

帰るときに学園の方から車で通る。

どう見ても学園から離れた場所に学園で飼ってる子牛が三頭フラフラしてる。

車でゆっくり牛舎の方に追い立てながら牛舎までたどり着く。

見渡しても誰もいないと思ったら、草原に畜産のナオキ先生がのんびり読書してた。

せんせー!子牛が三頭フラフラしてたから、戻しましたよー。

というと、あらあら!美炎子さん!ありがとうございます!ちょっと見てこなくちゃ。と向こうへ走って行きました^ ^

  

 誰が呼んだの?2- 2016/05/06 -

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謎を残したまま、呼んだのは誰か?もはやそんなことどうでもいい。

遠野に来て、馬をみて、みなさんに会ったら、それでもういい。

夜になり、大学生の可愛い女の子と、私と岩手遠野の馬と暮らす里の会代表の伊勢崎さんと三人でジンギスカンを食べに行く。

連休中日の平日だったので、手伝いの人が一旦はけてしまい、大学生の彼女のみゲストハウス改修の参加者として残っていたのだ。

明日からまた沢山の人が手伝いに来るらしい。

私はてっきり、馬頭琴→モンゴル→ジンギスカンということで選んでいただいたのかと思ったら、遠野は日本で北海道とひけを取らないくらいジンギスカンが岩手県内では有名で、何かあると、ジンギスカンを食べるのだそうだ。

焼肉と言えばジンギスカンらしい。

ジンギスカンはモンゴルにもありますか?

ありません。

という恒例のやりとりをして、遠野のジンギスカン。

肉をタレに漬け込んでいない。

後ダレ。

遠野のにごり酒。美味しかった!

と共に、このジンギスカン、とても美味しい。

想像以上。

羊好きな方はわざわざ食べに来てもいいくらいだと思います。

なんで世に知られていないんだろう。と、不思議になるくらい、羊の肉の臭みがなく、柔らかい。

どうやら北海道からもここへ肉を買いに来るらしい。

ちなみに肉はオーストラリアかニュージーランド。

直接輸入してるらしいです。

なので、お店で生肉を購入できる。

その肉を買って、野外で何かというとジンギスカンを食べるのだそうです。

で、ジンギスカンをつつきながら、最初は、なんで馬と暮らす里を目指しているのかという私の質問に伊勢崎さんがこたえ、伊勢崎さんの、なぜ美炎さんは馬頭琴やっているのかという質問に私がこたえ、それらを繰り返してだんだん話が深くなって行く頃、え?はじまりは随分似たような発想を持っている。話は飛ぶ飛ぶ。共通点があることをかなり発見して、

こいつは。。とお互い思った頃、あー。やっぱり、同じ匂いがする。という予感は当たっていたなと、納得する。笑

それにしても、事の発端がすでに笑い話になってしまった。

呼ばれたと喜んで来たら、主催者であるはずの人にあったら、美炎さんは誰に呼ばれたんですか?と言われるのは初めての経験。
山で弾いてみたときに伊勢崎さんが、この季節のこの時間はこういう風が吹くから、どうのこうの。

と風の話をよくしていたので、非常に珍しいなと思っていたら、パラグライダーをかれこれ20年もやっているベテランで、風を読むんだそうです。

伊勢崎さんの勝手に公共事業や、馬と暮らす里山の発想など、みんなこの風を読み、空の上から鷹の目になって村を見ているからだなーと納得。

伊勢崎さん家族とチーム

  
さて当日はどんな風が吹くのかな。

とても楽しみです。

次の日、テレビ取材が入り、代表の伊勢崎さんがインタビュー受けている間に、出迎えてくれた地元の高橋さんが、現場を仕切る。

私と大学生の女の子と、ちらほら到着した人達がみな女性。

高橋さんは、え?美炎さんも長靴履いて泥の中で作業するんですか?と言うので。はい。と。

前日伊勢崎さんに、過去のいろんな事がばれてしまったので、伊勢崎さん、当然のように、美炎さん作業よろしくー。

と長靴を貸してくれた。

高橋さんが、まだみんな来ないから休んでてください。と言って一人作業はじめる。

しばーらくして、「あー。困ったな。女性にこんな仕事してください。って言えないわ。

あー。とりあえず、お花摘みしててください。

その辺のたんぽぽとかお願いします。」笑

少しするとみな勢揃いして、本格的に作業がはじまる。

以前の私なら張り切って作業するところ、力仕事で腕を使うのは後で筋肉痛になった時も、その後も、本番があると弓をひく感覚がかわるので、途中から釘拾いを立候補。

ひたすら釘を拾う。

休憩の時、馬を飼っている菊池さんを捕まえて、聞きたかった馬のこと、あれこれ聞き倒す。
寒立馬。

青森の尻屋崎にいる天然記念物。

でも予算が無くて肉として売られる馬達。

肉にされるところを引き取られたのがここにいる、風神。芝祝い。春風。テル。

みな足が太く、胴も太く首も太短で、頭も大きい。

かわいいなー。この種をまじかでみるの初めて。

まだみんな若い。

テルはこれから調教。

山で木を切り、それを馬にひかせる。

馬搬。

機械と違い、山を傷つけないそうだ。

馬でひいてきた木材を自分たちで製材して、ゲストハウスの改修にあてる。

ちなみに皆さん伊勢崎さんのここ、地元の同世代の人々が会の中心メンバーになっていて、馬飼の菊池さんは馬の暮らしを求めてここへ移住。

自分の同世代の、一緒にこの地で育ってきた友人と、移住の人達と、地元の他世代の人たちをうまく巻き込みながら、里作りをすすめてる。

ここに住んでる地元の人を巻き込むって本当に大変なことだと思う。

その間に、意識を変えるなら、子供たちの教育が一番大切だというところに行き当たり、子供達にいろんな体験を通して、自然と伝えていきたいと伊勢崎さん。

馬飼の菊池さんより拝借

  

さて、6月11日のコンサート。

風はどこからどう吹いてくるか。

どんな方々が集い、どんな音になり、どんな御縁が紡がれるか。

皆様もタイミング合いましたらお越しください^ ^

馬をいつか飼いたいなー。と漠然と夢見ていたけど、まさか馬と共に暮らすを里作りとしてやってる方々がいるのは目からウロコでした。

こうやっていろんな場所でいろんな発想をもち、実行している人達と出会えて、自分も新たな視点に立てる。

ありがたいなと思います。

栃木県の棚田コンサート筆頭に、これは本当にご縁だなあ。としみじみ感じる自分と自分につながる場所があり、そこでうまれた輪が1輪だったのが、2輪になり3輪になる。そしていつのまにか波紋のように拡がっていく。

それが自然なのかな。

朝一番、伊勢崎さんが山の上のパラグライダーの草地へ案内してくれる。

馬搬の森を抜け、山の上は遠野の山々が一望できる。

あそこの尾根伝いの一番先端にゲストハウスがあります。

この草地もいずれ馬たちの放牧地にする予定です。

眺めていると、

パラグライダー仲間が飛ぶ為に上に来た。

風をみて、ダメだなこりゃ。と潔く別の場所へ移動。

何だろう。飛ぶ人達のこのすかーんと晴れた空のような気持ち良さは。

山をおりて普通にさっきいた山の上と、村に降りた時と、再び上がったゲストハウスの斜面の草地と、移動するだけでこんなに視点が変わることに改めて気づかされる。

ここへ着いたばかりのとき、猛禽類が一羽山の上を飛んでいた。

草地で音を出したあと、伊勢崎さんが、もう一ついいなと思ってる場所があって、と山の上を指差す。

そこで弾いたら、さっき山の上を旋回していた鳥の目からはこの景色が見えるのかと、弾いてて思った。

みなさんにまだまだ沢山話しを聞きたかったが、今日中に山形に戻るならもう行かなければならない。
遠野は今が桜の盛り。

あちこちに桜吹雪が舞い、晴天だった今日は山が回廊になって川とともに海へと続いている方から海風が斜面に沿って上がってくる。

そんなダイレクトな風とここの地形が遠野を作っている。

遠野を去る時、伊勢崎さんが言った。

美炎さん、美炎さんは遠野に呼ばれたんですね。

 誰が呼んだの?- 2016/05/05 -

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「誰が呼んだの?」やっとの思いで遠野に着いた。

岩手。

なんだかんだと来たことはあるが、遠野は初だし、車でも初。

山形で一泊して、朝出る。

東北って、長いんだった。

胴が長いんだよ。。

東北道が快適なのは福島までだった。トンネルないし、景色もいいし。

そこから先は景色いいけど、ほぼ同じ迫り来る山間をひたすらアップダウン。

もう景色気にせず、突っ走るのみ。

岩手の遠野でお馬さんを暮らしに取り入れて一緒に生活してる人達がいて、そこの人達に馬頭琴コンサートしてください。

という話が来た時は、東北も民俗学も好きだった私は遠野も学生の頃からいつか行きたかったし、

馬となれば、兎にも角にも。。

それがいっぺんに来るとは。

ただ、知り合いずてにその話がメールで簡潔にきて、詳しい話が分からずに、関係者と東京で会うことになった。

それが去年秋の話。

行ってみると、関係者ではない方もいたりして、話がなかなか詳しく現地の話にならずに、関係者の方も実は主催者との間に入ってくれている東京の方だったので、訳がよくわからないまま解散となり、そのまま私はしばらくもやもやしていた。

まあ、でもそのうち何か連絡が来るだろうと思っていたが、なかなか来ない。

せめて日程だけでも詰めなければ、と、間に入ってくれていた方とやりとりを少しして、なんとか6月11日ということが決まった。

野外コンサート。

これは、栃木県の那珂川町の山の棚田コンサートで、企画主催のヒロクラフト木工の廣田さんの、毎年のご苦労と、なかなかのアイディアを見ているので、

遠野の方々の動きがよく見えず、いろいろ心配だった。

でも、うっすらと、自分のよく知っている部類の人達、それは、私と似たような。。

それが、吉とでればいいけど、そうならなかったら、お馬さんが関わる話だけに、絶対成功させたいという私の勝手な想いもあって、とにかく、勝手に押しかけることにした。

下見と打ち合わせということで。

間際に、間に入ってくれていた方が、遠野に来れなくなり、でも代表の伊勢崎さんに伝えましたから、大丈夫です!

とのことだった。

打ち合わせの時に、よくある、その打ち合わせに関しての細かいやりとり。

まあ、でも予感としてそういうのが無さそうな気がしたので、とにかく2日の日のあるうちに行きますよー。

ということで、私は岩手にせっかくきたから、高校時代の先輩の恵さん。庭の手入れをしている東和のビオガーデンで、ゆっくり恵さんと庭でお昼を食べて話をした。

で、恵さんは代表の伊勢崎の奥さんと友人らしく、伊勢崎さんの奥さんに、美炎さん、そっちに呼ばれて行くでしょ!!

と興奮して話したら、奥さんが伊勢崎さんに聞いたら、なんか違う人だって言ってたけど。
っていう不穏な話をそこで聞く。

私は、まあでも行けばなんとかなるだろうなとまず温泉入り、その後、一度美術展開催の時に演奏で呼ばれた、ガラス絵作家の児玉房子さんが、新しくガラス絵館を遠野に作ったというので、そこへも寄った。

その後何度か、コンサートに来てくださり、私も児玉房子さんのコスタリカの平和主義の公演を聞いたりして、共通の知り合いがいろいろいることに驚いていた。

やっとガラス絵館に来れた。

    
少し児玉房子さんとお話ししてから、ゆっくりと一人で見る。

どれも本当に素敵。

一番奥に大きなガラス絵で宮沢賢治の銀河鉄道の夜があった。
ものすごく吸い込まれた。

先日から曲を作ったポラリスと、ポラリスの詩、あの世界観となぜかどこかで繋がった。それから、もしかしてもう書き上げられないんじゃないかとちらっと思う、父の最後の著作になるだろうなという、銀河鉄道の夜の研究書。

きっとそんなのもどこかにあるのか、絵の前で涙が止まらなくなってしまった。
多分五分くらいはその絵の前にずっといた。

児玉房子さんは11日には必ず聞きに行くからね。と約束して別れる。

さて、ナビが絶対ここ違うだろ!という山の中の峠と、人の家の崖の砂利道下りを案内して、どうやら着いた。

会の補佐的な高橋さんと、少し道のやりとりをメールでしていて、もう着きます。ということで、待っていてくれた。

少し会話すると、あのー美炎さんは誰の紹介で、こちらに来ることになったんですか?

みたいな。質問が来て、えーと、えーと、それはどういう意味なんだろう?
モゴモゴつぶやいてると、

山から小型のキャタピラーみたいのにのって、代表の伊勢崎さんらしき人が現れる。

あのー美炎さんは誰に呼ばれてこちらに来たのですか?

と同じ質問。。

代表の方じゃないからそんな質問が来たのかもしれない。と薄っすらした期待は打ち砕かれ、逆にこちらが、質問したい。笑

それはどういう意味ですか?

呼んだのはあなた方では、ない。。???

というのをこらえて、

(私)えーと、今回ですか?

(伊勢崎さん)いや、今回は下見ということでお話を聞いているので、知っているのですが。

ということだったので、えーとーえーと、間に入ってくれた二人の女性も、私は東京で一度しか会っていないしー。

で、何をどう説明しても、お互い分からないであろうことが分かった。
ま、いいか。みたいな空気が一同に流れたところで、家からきれいな沢水がながれている脇の小道を山の方へ少し登ると開けた牧草地があって、作っている途中のゲストハウスがあって、この連休は、一般に呼びかけて、古い古民家を改修する作業を会の方と、参加者とでするらしかった。

たぶん会の名前は、馬と暮らす里の会。

草地の斜面にウッドデッキがあって、さっそく野点のコーヒーをいただく。

  
少し話してから、馬頭琴をもちだして、あちこちで音を出してみる。

一度山の上で弾いたら、ずいぶんあちこちに音が伸びて聞こえ、鳥肌が立ったと言っていた。

面白いところで面白い人たちだな。

というのだけはよくわかった。
続く

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