2016
八ヶ岳を皮切りに西へのライブツアーへ、早朝に出発した私達三人は間も無く同時に眠くなるという状況におちいり、眠気から脱する策として、なぜかドラムの前田さんが、プロフィールクイズしまーす!
といういささか無駄なテンションではじまり、私はそんなクイズなんて面倒だなとチラッと思ったのですが。
前田さん「じゃあ僕のプロフィールから。
幼少より何に親しんだでしょうか?」
ピアニスト竹井さん「犬」
前田さん「じゃあ次。何部に所属して活動を始めたのでしょうか。」
竹井さん「野球部」
(正解プロフィールのくだりは、幼少の頃より地元の祭囃子に親しみ、吹奏楽部を経て・・)
ということで一気に目が覚めました。
流石竹井さん。
珍道中という前回の岩手遠野ツアーのブログが大変評判がよく、会う人ごとに、竹井さんと前田さんのくだりに皆さんいたく感動されているようで、今回も。
八ヶ岳での演奏が終わり、早朝出発。
まだ薄暗く、朝に比較的強い私がハンドルを握ろうと、「さて、ナビはどこに設定しようかな。」
そこでやり取りが少しあったのですが、後日ツアーの途中で、竹井さんが、「美炎さんあの時、どこに設定しようかなと言って、前田さんが、新潟!ですかね??
って言ったら、前田さんもう何も言わないでくださいって怒ってたよね。」
と言われて、思い返す。
八ヶ岳から、岡山は備前へ、
中央道の小淵沢インターより、琵琶湖の長浜へ出て、大阪での花火大会渋滞をさけるためにそこより日本海側に出てのち、岡山備前へ直下するという計画を、事前にお二人には伝えていました。
なので、薄暗く、眠気と戦いながら、まずナビをどこに設定するか、鈍い頭をめぐらせながら、琵琶湖の長浜あたりかな。と考えているところに、たたみかけるように、前田さんが明るく、新潟!!
と言ったので、(その後自信なさそうに、ですかね??と付け加えていました。)
私はもう説明する気力もなく、何も言わないでください。となったのでしょう。
後から前田さんにも、美炎さんあの後しばらくイライラしながら運転してましたよね?と言われ、お二人を怯えさせていたのかな。と反省しましたけれども、
このお二人に進化を望んではいけないのだなと1人悲しくなるのでした。
強くなる私。
その後も溢れるほどこのようなくだりは続くのですが、いちいち私も覚えてないのでした。
ひとつあるのですが、え!!という返しをした途端にご本人が間違えに気づいたようで、美炎さんあのこれだけは、ブログに書かないでください。とおっしゃってたので、やめときます。
でもおかげさまで笑いの絶えない旅です。
お二人はどちらかが素っ頓狂な受け答えをしているのをご自分のことはすっかり棚に上げて笑っていらっしゃるので、平和です。
もしかして私もか?
ともあれお二人は舞台の上ではとても頼りになります。(MC以外で)
八ヶ岳では縄文の博物館の館長さんが三日月について熱く語るのを皆で興味深く聞いたり、八ヶ岳に呼んでくれた天さんが採った鮎や山の幸をいただきながら、外で弾きました。
あんな風に山が暗くて星が見えていて、田んぼの広がりがあって、月の曲を弾くのは気持ちがよく、また一人では演奏しきれない世界観をお二人の伴奏によって形作れる幸せを感じるのでした。
道中は温泉や美味しいものを食べることを決して忘れず、ご褒美があればあるほどいい演奏ができるわけではないのですが、リラックスや楽しさや、嬉しさはやっぱり自然と音に出てくるのは人間です。
兵庫の山の上はなかなかの近代都市で、面白いホテルや、ホテルの周りのオブジェでツアー企画してくださった安則さんが来年のチラシの写真撮影をしましょうというので、それと共にまた面白い所をまわりました。
腹ごしらえに連れていっていただいたお好み焼き屋さんには、雷と白い鹿を追いかけて撮影している方に、ジャコウネコの糞からとれた貴重なコーヒー豆のコーヒーをいただいて、甘い香りにうっとりしました。
今回の各地の演奏では、懐かしい方々に沢山あいました。
そうして足を運んでいただいて、音楽を聞いていただける幸せ。
お互いに別々に流れていた時間を飛び越えて今、ここを共有できる面白さ。
そこからまた新しくはじまる物語。
いつも思うのですが、呼んでいただく場所というのは何かやはりご縁があって、呼ばれたんだろうなと思います。
人も場所も建物も、生きているというか、音を出すというのはすべての存在に何らかの働きかけをしていて、そこで何かの作用があり、それが次の物事につながるというか、そんなイメージでいると、とにかくそれを感じていればやがて少しずつ広がっていくのだろうと思います。
やめさえしなければ。
父を見舞いました。
弟とは、もういつも最後かなと思いながら会いに行くんだけれど、自ら復活していくんだよね。
でもきっと、ああ、もうダメだ。とこっちが思ってると、また復活して、ああ、大丈夫そうだと思ってるといつのまにかそのまま逝くんだろうね。
と、もう弔辞を10年前から書いてるという弟と笑いながら話すのでした。
もう96歳ですから、いつでもどうぞ。とは言わないまでも、いつ逝ってもおかしくないわけです。
入院している個室の部屋を開けて皆で入っていくと、わー。たくさんきたなー。
もうね、孤独でベッドに沈んでたところなのよ。
と、父らしくない寂しい言葉と父らしいユニークな言い方で、ああ、父だな。
と実感したのでした。
でも話すうちに力が湧いてきたようで、この入院はチャンスなんだよ。
まとめて考えるのにちょうどいいんだ。
今までの50年の研究を一変させるような大発見をしたんだよ。
ととても生き生きと話す。
一緒にいらしたお弟子さんが、先生、それなら私達の今までの30年は何だったんですかね。
と大笑い。
私達ついていけるでしょうか?
それはね、退院してから、皆にわかりやすくどう説明するかを考えて書いて残さなきゃな。
と、もう退院することにしているのでした。
リハビリが残ってるからまだ入院しているのだそうです。
そして弟の教え子さん達と飲みました。
聞けば弟は大学を卒業してすぐ、大学の先生になったようで、生徒が生徒を教えるようなもんで、よくそんなことが通ったなと驚くのですが、数学の研究にどっぷりハマったままだと変人になるしかないので、若い生徒さん達に慕われて、いろいろ議論できる環境がすごく幸せだったのだな。とホッとしました。
なんだ、父といい、弟といい、変人とも言えるけど、私にはとても分かり合える人達で、つまりは私も変人の類なのか?と思いつつ、変人とは、一つのことに夢中になってしまう人のことで、それで生きていけるように、周りの人がものすごくたくさん助けて応援してくれるという、そんなことを思ったのでした。
たぶん、やめなきゃいけないなら、草の根っこを食べてでも、夢中になるのをやめられない類なんでしょうね。
2016
この田舎の家に一人でいると、世界から隔離されてるようで、ぞわぞわする。
でもこの空の向こうはアラスカだったり太平洋だったり自分の妄想では随分と都合のいい世界だ。
最近は台所の机から外を眺めたり、本を読んだりするのが好きだ。
今日も台所の窓からはベランダの柵に雄のキジがとまっているのが見える。
しばらくすると谷地の方へ飛んで行った。
そして急に空が開けて日差しが熱くなり、そこに向けて洗濯物を干す。
それからしばらくまた読書に没頭してると、急に空が暗くなってスコールのような大雨。
外に飛び出る。
といっても広いベランダには屋根があるので雨にはうたれないですむ。
広がる谷地と、ベランダの下の草むらに雨が降り続けるのをみる。
向こうの空は少しだけ晴れてる。
空がドラマチック。
小鳥が二羽、雨の中飛んでいる。
言葉にならない気持ちは音にのせよう。
音にして風に運んでもらおう。
空に溶けていく。
夜が好き。
昼間には素通りする何かの気配をたくさん探してしまう。
そこに息づいている何かは闇の中で溶けて私の肌につながっている。
何もない日というのが結構ある。
気分がのれば料理をしたり、家のいろんなことをしてみたりする。
気分がのらない日はほんとに何もしない。
ただ、台所の椅子にすわって、外をみて、本を読んで、喉がかわけば、お茶を沸かしてのみ、お腹がすけば目の前のガスでパンケーキを焼く。
音楽も聞かないし、音楽もしない。
365日音楽なんてできない。
自分は飽きるんじゃないかと思う。
だから、飢えさす。
たぶん、人にも飢えて、出歩くことや、ニュースやその他いろんなことに飢えたころ、仕事という名の演奏へ出て行く。
そのバランスが自分にはいいらしい。
よくあちこちに出てますね。
と言われるが、実際に出てる以外はほぼ引きこもりじゃないだろうか。
人に飢えて人に会いたくなった頃人に会う。
旅に飢えて旅に出たくなった頃旅に出る。
音楽に飢えて音楽が欲しくなった頃音楽をする。
いつでもそうとは限らないけど、そんなバランスにしていくのは自分自身だから、自分のために。
2016
あんまり面白そうに会話してるから、思わず、一緒にやりたくなる。
それで、ちゃちゃ入れたり、相槌うったり、もしくは、そのへんで踊ったり。
思わずつられちゃう。
ジャズサックスの中村誠一さん。
ライブに行ってきました。
ピアノ、吉岡秀晃さん。
中村誠一さんはジャズのジの字も知らない私でもなんとなく知ってる、ジャズピアニストの山下洋輔トリオでも有名。
ピアノ吉岡秀晃さんは定期的に中村誠一さんとデュオを続けていて、ロサンゼルスタイムスでは「日本が生んだファンキージャズの達人」と評価されている。
しょっぱなから、へーーーーー
って思いっぱなしで、なんていうか、本物聞くのが一番早くて、一番勉強になる。
ジャズ勉強しようなんて、思ってもいないのですが、中村誠一さんとはやりたいのです。
っていうと怒られそうですが。
中村誠一さんとは、イラスト、絵描きの田村セツコさんの展覧会後の打ち上げで初めてお会いして、へー?馬頭琴?どんな音すんだろうね?
という多少の興味は示してくれたものの、ま、珍しい民族楽器にありがちな、とりあえず弾けるだけじゃないの?的な感じもおそらくは。
わたしも同感なだけに、かえって、この人は正直な人だと好感。
特に私は名もない日本人ですから、これが楽器現地のお墨付きの方なら話は全然別ですが、期待されてない現場というのはあったりします。
期待されてない感じを受け取ると、私の場合やる気が倍になります。笑
確かに珍しい民族楽器というのは、そもそも見るだけでも、音出すだけでも、へーーー!!!ってなるお得感はあります。
で、じゃあ弾いてみてよ。決して意地悪で言ったわけではないのは確かですが、私としては、ここでガツンとやらざるを得ないでしょう。
いつでもどこでも本気モードですが、ちょっと気合入ってたのは確かです。笑
その機会は田村セツコさんのバースデーパーティーでした。
中村誠一さんパーティーの中でメインで演奏されていて、ジャズを多分ちゃんと聞いたのは私も初めて。
飛び入りで、合間に馬頭琴を弾く。
もう誠一さんは真横で、ものすごいかぶりつきで見てました。
確か三曲くらい弾いた。
すごい人に試されてる感満載で、なおかつ超かぶりつきは、まるでいたずら少年のような目ですから、怖くはないのですが、そのせいで私もテンション上がりまくりで、果たしてちゃんと演奏できたのか記憶にないんですけど、パッションは伝わった。
誠一さんが、終わった後、挨拶の時に、「いやー。しびれましたよ!」
中村さん:今度ライブやるから弾きにおいで。ジャズ。
私:いや、私ジャズわかりません。
中村さん:でもなんか弾けるでしょ?
私:なんかは弾けます。
中村さん:じゃ、大丈夫。当日、楽器持ってきて。
内心、えー!!
と思いつつ、どこかでなんか楽しそう。とチラリ。
今にして思えば、もう中村誠一さんの持ってるそのものが、人にそういう遊び心をもたせてしまうとしか思えない。
今日のお二人の演奏見ててもいろんなことを感じたり、考えました。
やっぱりいい音楽って、心も開放されるけど、頭もくるくるまわる。
中村誠一さんはフラット。
本当に人柄と在り方と、なんというか、先日私が荒浜でゼロ。
ということを思ったのですが、中村誠一さんはそれを元々持ってるんだなーと思いました。
超絶技巧というのは遊びの中の一環。
遊びの要素だと思えました。
あくまでもさらっと。ポケットから、あら、こんなのも入ってたよーーん。
という感じに。
中村誠一さんに、あの、またご一緒したいのですが、なかなか躊躇していて時が過ぎてしまいま。。
あ、とにかく、やるって決めちゃおうよ。リハーサルも含めてね。
ハイ。
ということで、企てることにします。
2016
アザラシはまた今度狩ることにして、この前のお話。
呼ばれて初めて訪れる場所。
演奏というのはただ演奏するだけではなく、その場の雰囲気やその日の天気、集まるお客さん、主催者、いろんな要素が総合的に作用しあって生まれる時間。
おっと、アラスカでの旅の話にもつながりますが、ちょっとした探検、冒険旅行みたいのを好きでやっていた時に、きちんとした計画。
それから色々な予測。
そしてあとは運を天に任せるみたいなちょっとした勇気。
予測や計画がとても大事ですが、それはもうあって当たり前の要素で、むしろ大事なのは、予測と外れることが大前提であり、計画がうまくいかないことが大前提とよく知っていることです。
そして、そんな時にもってるもの全部使って判断行動していく。
ほとんどの場合、緊急なのは全く考える時間がないです。
その瞬間、迷うことなく何かを決めていく。
決めるにあたっての、経験や知識やあとはもう、その時察知できる感覚。
それがまったく音楽というナマモノ。
そして舞台というやり直しのきかないところに、必要な要素だということ。
誰かにむけて言い訳することができない世界。
自分でこうだと判断したら自分を信じること。
アザラシ狩りに出ることにしましょう。
その家には白い狼みたいな犬がいました。
家の中に入れてもらえることはなく、鎖に繋がれずに、家の玄関前に寝ていました。
いかにも賢そうな顔で、アザラシ狩りに出る朝、すぐにこれから何が始まるかわかった顔をして私達についてボートに乗り込みました。
支流から海へ。
その途中仲間のボートが四艘ほど合流してきます。
波は一切なく、
透明で滑らかな布の上を切り裂いて進んでいくようでした。
途中ガンのような群れが頭上を飛んでいきます。
するとエスキモーの一人がその鳴き声を真似ました。
すると鳥が鳴き出し、そこへ向かって鉄砲を撃ちましたがあたりませんでした。
そのあとしばらくして、その波のない海の中で、どのように発見したのか、アザラシがいました。
海の上にひょっこり顔を出してこちらを見ます。
かわいくて思わずドキッとしました。
ボートはお互い邪魔することなく、間隔を保ちながらアザラシを追い詰めていきます。
ボートの先端では槍を構えて乗り出しています。
一人が槍を投げる。
すると他のボートからも一斉に槍が飛びます。
でもあたりませんでした。
それを数回繰り返し、とうとう槍がアザラシにあたりました。
空気の入った丸い球体の浮き袋のついた槍でとどめをさすと、もう潜れません。
ボートにあげられ、近くの島へ。
そして小型のナイフで手際よく解体されます。
何か順番や細かい儀式があるようでした。
内臓をそれぞれ焼いて、心臓や、肝臓、そして生肉など、色々な部位を食べさせてもらいました。
肝臓は海の香りがしました。
最初、どこか祈るような気持ちで、アザラシに槍が当たらなければいいなと思いました。
けれどもボートはボート自体が起こす波で揺れ、その波を越えていくたびに、まるで馬に乗っているようで、私はだんだん興奮してくるのが自分でわかりました。
あたったらどうしようという緊張感と、どのように追い詰めていくのかというスリルと、素早く波を越えて走るボートと、遣り手の息遣いなど、自分の中にも知らない本能があるような気がしました。
こんなふうにして、命をいただく機会を経験できたことは、この長い旅の最後の日にとても意義があるような気がしました。
これ以来、私は自分の中に矛盾をかかえていることを、むしろ当然だと思うようになり、白黒はっきりさせようとか、他人にたいしても、こうあるべきだとか、あまり思わなくなったように思います。
2016
まるでこれから旅に出るような感覚。
必要最低限のもの。
長期の旅に出るとき、それが原野だったりするとき、生きていくのに必要なもの以外にも必要なものがある。
例えば本。
それから自分の好きなもの。
これ持っていくと心が和むとか、ふと目に入るとニヤッとするとか、そんなもの。
三か月アラスカへ旅に出る前、まだ馬頭琴と出会ってなかった私は一万円のバイオリンを骨董屋さんで手に入れて、持って行こうとしていた。
ユーコン川は全長3,000キロ。
日本列島とほぼ同じ。
大河なので、一部分をのぞけばかなりゆったりした時間が流れる。
そんな合間に音楽をしたいと思った。
でもメンバーは2人きりで、ゴムボートも持参となると、やはりバイオリンは最終段階で諦めた。
そのかわり、日本から持っていったもの。
中華鍋。
これ、大当たり。
つまり、川の上にいる時間以外は、夕方テントを設営する川の中州の上にいる時間が長い。
寝る以外何をするかというと、焚き火だ。
流木は幾らでもある。
焚き火自体が楽しい。で、これで何するか、
そう。料理。
中華鍋と焚き火の相性は抜群だ。
大きめの流木が二本もあればその上にぽんと置いて、煮込みも、スープも、炒めもできる。
不安定な足場でも、底が丸いと幾らでも調整できる。
共に持って行ったのは、日本の乾燥食材。
例えば、干し椎茸、キクラゲ、干しエビ、片栗粉、とにかく、軽くて痛まず、使い回しのききそうな食材をなるべくたくさんの種類持っていった。
おかげで、流域に点在している小さな村のグロッサリー(雑貨店)で、じゃが芋や、ちょっとした食材を買えば、工夫して、中華料理や和食や、なんだか不思議な美味しいものをいろいろ作って楽しめた。
中華鍋と乾燥食材を持って行かなかったら、このアラスカライフは半分くらいつまらないものになった気がする。
バイオリンは持って行かなくて正解だった。
あの3ヶ月のアラスカの何もかもが私の中に入り込んで、いまだに断片となって蘇ることがある。
きっとそれが私の今の音楽の中にある。
中華鍋のその後、ゴールは海。
川というのは海に注いでいるから。
もう10月に入っていて、少し雪が降ったり、川の端がうっすら凍ったりしていた。
中流域はインディアンの村だったのが、海辺に近くなるとエスキモーの村になる。
(インディアンをネイティヴアメリカンと呼ぶとか、エスキモーをイヌイットと呼ぶとか、気をつけていたけれど、その当時出会った人達は、自分達をインディアンとエスキモーと呼んでいた。)
完全に海まででてしまうと、もう戻れないような気がした。
以前山形の最上川を下って海まで出た時、海の波をまともにくらって、船を転覆させたことがあった。
その時、海は全く未知の世界だと思った。
おそらく最後のこの海辺の村を通り越して海にでてしまうと、そこから村に戻るのはかなり難しいだろう。
と早々に判断して完全に海に出る前に少し小さな支流沿いにボートを漕ぐ。
家々が見えてきたところでボートをあげて、そこにテントをはることにする。
中華鍋はすっかりくたびれてる。
毎日3ヶ月、焚き火にあぶられて。
日本に持ってかえるものと、置いてくものをわける。
捨てるものを岸辺に分けて置いておいたらしばらくしてあるエスキモーの男の人がそれらのものを珍しそうに眺めていて、そのうち手にとる。
これ、いらないのか?
うん。
というと、もらっていいか?
ときかれる。
もちろん!
そして中華鍋は彼の家に引き継がれることになった。
乾燥食材の残りは、何かを獲るときの餌に使いたいと言って、私たちがゴミとして処分しようとしていたほぼ全てを彼は引き取ってくれた。
それから、彼は、うちでスープ飲んでいかないか?と私達二人を誘ってくれた。
喜んで伺うことにする。
スープは大鍋の中に日清のカレー味のインスタントラーメンを味付けとして使っていて、ムースの肉がゴロゴロ入っていてなんだかとても美味しかった。
そこに泊めていただくことにした。
もうテントでは寒いのだ。
家ではストーブをガンガンたいていて、みんなTシャツだった。
エスキモーの人たちの暮らしをら知りたくていろいろ質問攻めしていたら、向こうも興に乗ってきて、アザラシ狩りに使う伝統的な槍を見せてくれた。
どうやって獲るかやってみせてくれて、食い入るようにみていたら、明日、アザラシ狩りに連れて行ってやるといった。
つづく